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「自分を信じていない自分」こそを疑え

「自分で自分に命令を下し、その命令の通りに実行できる自分。」

これができるのっていいことばかりだと思っていたし、
歳をとるにつれ、これが上手にもなってきた。

――でも。
「自分までもが」自分を「命令し」「手懐けようとする」のって、
その時点でどーなんだろう??

と、ふと感じたのである。

「真面目」「一生懸命」「目標設定」「情熱」…みたいな、
これまでひたすら一分の疑いもなく良しとしてきたものに、
急激に違和感を覚えはじめた
、ということである。
――こんなことは、人生で初めてかもしれない。

ふと、「そういうのって屡々不自然なことない?」
という気分が湧いてきたのである。
「余白」を「無駄」とみなして、
文字をぎゅうぎゅう詰めにした原稿用紙みたいに思えたのである。
「窮屈で息が詰まりそうに」感じられてしまったのである。

「なのでこれから自分はそんな余白も大切にしていこうと思う。」
――と、まあ、一言で言えば今回のこの記事は、ただ単にそれだけの
「一個人の感覚」の話にすぎないかもしれません。(笑)

が、そんな「一個人の感覚の話」を更に続けてしまいます。
真面目に、一生懸命に、目標設定して、情熱をもってやることについて、
もちろん、それらを全否定をするわけではない。

「うひょ~っ!」てな感じで、自然に前のめりでそれらができるなら、
その場合は無論、別にかまわないと思うのだ。

私自身、例えばストイックにがんばりたい、そのように「したい」時は、
別にこれからもするだろうし。
でも、
「何がなんでも何時いかなる時もこの世の全てにおいて、
真面目で一生懸命がベスト!無敵!!最高に素晴らしい!!!」
…な~んてことはないのでは?と。

「息苦しい」という自分の「違和感」を、
「根性なし!」とか「不器用!」「下手くそ!」とか
頭からおよび片っ端から否定してかかることもないだろう、
と、ふと思ったのである。
自分のその「息苦しい」と訴える声を、
「根性」とかなんとかそういう理屈で、
唯一直接耳にすることができる他ならぬ自分自身が
結果まるっきり「無視」してしまうなんて、
お前(自分)、何様なんだよ? と、思ったのである。


そもそも、意識してわざわざ出す力より、
無意識に出る力の方が、もともと自分は好きなのであった。


しかし、思い入れがある事や大切に思っている事ほど、
「真面目に」「一生懸命に」「目標設定して」「情熱を無駄なく注ぎ込んで」みたいになってしまう。
転じて、
「自分というものを欲張る」「自分というものを実際以上に高く見積もる」
更には「自分で自分に強制する」
みたいなことも起こってしまいがちになる。

しかし、
「自発的に動き出す」力と、
「命令されて動く」や「無理やりにひねり出す」力と、
どちらの力のほうが大きいか、そして先の可能性の広がりがあるか、

想像してみるまでもなく答えははっきりしているのではないだろうか。
例えば、ただ命じられて「暗記させられている」ことと、
自分が好きなことについて「自然に憶えていく」ことと、
どちらのほうがより多く憶えられるか、この先長く忘れないでいられるか、
その結果は火を見るよりも明らかであろう。
「自分の心が自然と入っている」ことと「入っていない」こととの違いと
これは言ってもいいかもしれない。
そして、
「自分で自分の首根っこをつかんで引きずり回す」
ようなことをしていると、そのうち、
「自分の意思さえ動き出せば自然と脚が前に出る」ということすら、
つまり普通に歩く事すらも、(せっかく歩けるのにも関わらず、)
案外自分でも忘れてしまうものかもしれない、とも思うのだ。


自分が「意識的に」行う部分が幅を利かせすぎると、
結局「自然と」「無意識に」動き出す力が削がれていく気がする。


で、何故こんなことを思うようになったかというと、
気づいてしまったからなのである。
頭で、考え過ぎ、意識し過ぎ、自分を操縦し過ぎる自分について。
――と、まあ、早い話が、
これは自分という個人の性格によるところの話につきるのかもしれない。(笑)
「真面目」とか「一生懸命」とか、なり過ぎちゃうんだよな、割と。
で、「過ぎている」のに、
それすら良いことのように思ってしまう
んだよな。

結局、自分という人間を、
どこか、またはどこまでいっても、――この歳になってもいまだに、
自分自身が信じていないし、認めてあげてもいないのだろうな。

「もっとやりようがあるだろう」って
自分で自分に延々とどこまでもダメ出しをし続けている。

例えば、他の誰かと比較して。
そういう比較自体が必ずしも悪いわけでもないけれど、
他人を参考にすればするほど、
元々の自分が持っていた力がどこか削がれていくということは
大いにありうるし、
「自分なりのやり方や加減」を見失っていくという側面もまたある。

もちろん、他者との比較はそれで良いほうに作用することもある……が、
悪いほうに作用することだってあるのだぞ、
という「諸刃の剣である」というそのことに、
なんとここまで長らく自分はまるで気づいていなかったようなのだ。

自分の心とか精神とかを殺すのって、
その「最終的なとどめ」を刺してしまうのって、
案外自分自身
だよな、と思った。
自分からはどうしたって、逃げようがないしな。
だから、「自分を信じていない自分」こそを、
あらためて十二分に疑ってみようと思うのである。



自分を信じれば、自分の「楽しい!」という感覚も、
信じてあげられると思うのだ。
「自分を追い込む」「根性を出す」みたいなことについては特に、
そこに必ず「楽しむ」という感覚がなくてはならないと思う。
(それは必ずしも「判りやすい楽しさ」ではないかもしれないが。)

何故なら闇雲な「追い込み主義」「根性主義」は、
時に「楽しい」を「邪魔なもの」として扱い
「楽しい」そのものの存在の息の根を止めてしまおうとする
からだ。

「楽しい」という感覚は、何より強力な「原動力」なのに。
「楽しい」が腹の底から自然に湧き上がってきた時の、
人の力の大きさは相当なものだ。
(それを感じた事のある人はたくさんいるのではないだろうか?)
それなのに何故わざわざ
「楽しい」を「窒息死」させなければならないのだ?

「楽しい」は、もっともっと、大切にされていい感覚なのだ。
「楽しい」を蔑ろにするなんて、もったいないことこの上ないし、
ましてや「全否定」しての「根性至上主義」だなんて、以ての外である。



「楽しめそうなこと」があって、それを楽しめるなら、
何よりもそれを大切にしたらいいではないか、と思うのだ。

だって、この世のすべてのことに対して、
私達各々誰もが必ずしも「楽しい」と感じられるわけではないではないか

一個人が「楽しい」と感じられることは、ごくごく限られているのだ。
つまり、「楽しい」ことは、人によってバラバラ、ということである。
だからこそ、それを、
それぞれができるだけ大切にしていったらいいではないか。
例えば、私はこのように「文章を書くことが何より楽しい」のだが、
その逆に「文章を書く事だけはどうしても好きになれない」
という人だっているだろう。

自分自身も含めた、それぞれの人の、自然に湧き出してきた「楽しい」を
もっと、大切にして、尊重していけたなら、
そういう空気に満ち満ちたなら、
この世の中って、更に、
広々として、いきいきとした明るい力に満ちて、風通しよく過ごしやすくなるのではないかな?
なーんか、堅苦しく息苦しいことが、何でもかんでも良しとされるような、
そんな空気をいまだに社会全体にも感じるのだよなあ。