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ちんちんまんまんを祀ることについて

ちんちんまんまんを祀る風習がある。
いわゆる生殖器崇拝とゆ~やつだ。生殖器崇拝は古代ギリシャ・ローマをはじめ、インド、北欧、東南アジアなど世界中のあちこちにあったりするわけなのだが、我が国ニッポンにも全国各地に色々とあるわけである。我が国では早い話がちんちんまんまんを御神体なんかにしちゃっている自社仏閣があるとゆ~わけだ。つまり我が国には、ちんちんまんまんの神さまがおわせられるとゆ~ことになる。わりと有名なのは「おしめさま」「こんせいさま」「かなまらさま」辺りてあろうか。考えてみれば、日本は生殖器崇拝が風習としていまだに根強く残っている稀有な国なのかも知れない。それらが外国人観光客に対してのおもしろスポット的な扱いにもなっているし。

では、どうしてちんちんまんまんなんかを祀っているのか?はたして、ちんちんまんまんの神さまとは何なのか?とゆ~疑問が湧くではないか。はたして、ちんちんまんまんの神さまとは、「ステキな相手とおセックス出来ますように」だの「おセックスのテクニックが上達しますように」だのといった願いをかなえる為におわすのであろうか。

ここでまず考えたいことがある。ぶっちゃけ、現代社会ではちんちんまんまんをオブジェにすることはタブーである。法により罪に問われる場合だってあるわけだ。ちんちんまんまんを型どった作品ってのは猥褻物関係の罪になる可能性がある。
では、ちんちんまんまんの御神体はいいのかとゆ~問題があるではないか。え?いいの?神さまだったらアリなわけ?おもいっきり造形がちんちんまんまんなんだけど?とゆ~ものが我が国には沢山あるわけなのだ。
でも法律でバッサリ切り捨てられずに残ってきたわけだ、ちんちんまんまんの御神体は。法律ってのは杓子定規に運用されないことが当然だとしても、ここまでちんちんまんまんを祀ることが黙認されてきたのは何故なのか。
それは、おそらくこの列島に住む人間の文化的な感覚によるものが影響したと思われるのだ。よく言われるミームってやつだ。具体的に言うと、日本では昔からある神社などは不法投棄されにくいとか、神さま的なものを排除したらバチがあたるのではないかとか、そ~いった多くの日本人が共有する精神的な感覚だ。その感覚による影響が、ちんちんまんまんの神さまを現役の神さまとしておわせられることを可能にしたのではないかと思うのだ。これはあくまでも俺が勝手に思っていることなのだが、過去から現在にいたるまでこの列島に住む人間達には、ちんちんまんまんの神さまを廃することで自分達のちんちんまんまんにバチが当たったら嫌だな~なんて感覚があったような気がしてならない。そんな感覚的なものがちんちんまんまんの御神体が廃されなかった理由の一つなのかな~なんて思わなくもない。(ま、勿論それ以外にも理由はあると思うのだが。)

でだ。現在は猥褻であるとされるちんちんまんまんであるが、その昔はど~だったのかとゆ~話である。これは国や地域によってその歴史は色々であろうが、今回は日本について考えていきたいと思う。
その辺りに我が国における、ちんちんまんまんの神さまとは一体どんな神さまなのかとゆ~解答のカギがあると思われる。
先に結論っぽいことをざっくりと言ってしまうと、昔と今とでは性や猥褻に対する感覚に大きな隔たりがあるとゆ~ことだ。ちんちんまんまんに対する認識が現代社会と今とではだい~ぶ異なるのである。
ちんちんまんまんは多産、豊穣などをもたらすパワーがあるものとしてトーテム(象徴)化されていたとゆ~話だ。

現代社会のような猥褻に対する意識が根付きだしたのはどうやら明治維新以降らしい。
欧米文化(≒キリスト教的文化)の影響を受ける以前の江戸時代なんかはエロに対する意識が現在とはちょっと異なるようなのだ。風呂が混浴だったり、女性がおっぱいをそこら辺でへ~きで出したりしていたとゆ~ではないか。(因みに、今も混浴にすべきだとかそんなことを言うつもりはない。←ここ大事な紳士アピール)
なんとなくその辺りの感覚は分からんでもない。2020年現在でも狩猟採集生活をしている人々なんかは男性も女性もおっぱい丸出しだったりするわけだ。その方々は「おっぱいはエロい」とゆ~意識はないのではなかろうか。仮にあったとしても俺のような令和日本に住むど~しよ~もないエロとは感覚がだい~ぶ異なると思う。全く異なるわけではないだろうが、ま~それなりの隔たりがある。江戸時代はわりとそんな感覚に近いのかも知れない。性に対しておおらかだったと言うよりは、性に対する感覚が現代とは違っていたのだろう。
おそらくは江戸時代くらいまでは、日本人にとって裸は羞恥心だのエロだのを喚起させるものではあまりなかったのだろう。ゼロではないにしてもあまりなかったと思われる。おっぱいとかはエロの対象ではなかったろうし、セックスと裸体の結びつきは現代社会よりも緩やかだったと思われる。

ただここで別の疑問が生じるのだ。「でも下半身はそれなりに隠してたんじゃね?」という疑問だ。江戸時代でもしっかりとちんちんまんまんは隠していたではないかとゆ~疑問が生じるではないか。江戸時代どころではない。もっと前からの話だ。縄文時代までそれは遡るではないか。
昔と今とでちんちんまんまんに対する意識の隔たりはあったとしても、何だかんだで隠してたじゃんと思ってしまうわ。
ま~それでもちんちんまんまんを隠す為に服があったというよりは、防護や防寒の為に服を着ていたと考える方が妥当であろうから、防護や防寒の為に服を着ることにより結果としてちんちんまんまんを隠すことになった、と考えるべきであろう。
聖書では人類の祖先であるアダムとエバが禁断の実を食べたことで「いやん。恥ずかしい」となるわけだが、日本を含めキリスト教文化圏でない文化圏もちんちんまんまんを基本的に隠すのは、これは上で述べたように服を着た結果としてちんちんまんまんが隠れることになったと考える方が妥当なような気がしないでもない。

ちょっと話が脱線するが、服を着たことにより結果としてちんちんまんまんが隠れたことで、それが我々サピエンスにとっての発情のトリガーになったとゆ~こともあるのではなかろうか。
この辺りについては、進化心理学辺りからのアプローチがあったりするのだろうが、一つの仮説として、ちんちんまんまんを隠すことでセックスをしたくなる欲求を生み出していたのではないかとの話がある。セックスのタブー化ってやつだ。ちんちんまんまんを隠す(とりわけまんまんの方を隠す)とゆ~文化は、他の動物のような発情期がない我々サピエンスが種の保存の為に編み出した戦略であろうとゆ~のだ。(正確には、ちんちんまんまんを隠している個体の方が種の保存に結果として有利に働き、進化の過程で自然選択されてきたと考えられる。)
鶴の恩返しのように、見るなと言われると見たくなる機能が我々サピエンスの脳には搭載されている。その脳の機能を上手く利用した戦略なわけだ、ちんちんまんまんを隠すとゆ~文化は。ちんちんまんまんを隠すことは、我々サピエンスの種の保存の為に、その必要性が次第に高まってきたのではなかろうかと思う。ちんちんまんまんが隠れていたことが我々サピエンスの発情の為に次第に役立ってきた、そう考える方が合点がいく。
様々な文化圏でちんちんまんまんを隠すとゆ~文化が見られるのはこの辺りが理由なのではなかろうかと思うのだ。

で、いよいよちんちんまんまんを祀ることについてなのだが(ここまで来るの長過ぎ)、そのスタートはおそらく、所謂、自然崇拝のような原始宗教に近いものであったろうと思われるわけだ。
原始宗教とは先史以前からある宗教のことだ。文字で記された歴史以前から存在している宗教のことである。
ちんちんまんまんは猥褻であるとされるはるか以前に、ちんちんまんまんは原始宗教の対象になっていたであろうとのことである。

縄文時代には「石棒(せきぼう)」と呼ばれる磨製石器が既に存在しており、それはちんちんを模した石器なのだが、それは呪術だの祭祀だのに使われていたと考えられてるのだ。
その頃にちんちんまんまんが発情、セックスのトリガー的な役割をどの程度担っていたかは分からない。だが、現代社会のような猥褻、破廉恥、卑猥、不埒、エロとったイメージはおそらくはなかったであろう。
どちらかと言えば、ちんちんまんまんにより生命が誕生するとゆ~事実を考えれば、ちんちんまんまんは生命や誕生の象徴としてのイメージが強かったのではなかろうか。で、そのイメージの延長に多産、豊穣等のイメージが発生してくるのであろう。だからちんちんまんまんは自然崇拝の対象のようになったのだろう。で、そこから土着の民間信仰の対象としてちんちんまんまんの神さまがおわすとゆ~ことになり、やがては神道や仏教なんかとそれがガッチャンして、で、この列島に住む人間の感覚や価値観みたいなものから廃されることもなく今尚根付いているとゆ~ことになるのだろう。
で、こ~なってくると「ちんちんはデカい方がいい」なんてゆ~アホな言説も、上で述べた縄文時代の感覚辺りが発端なのではないかと思わなくもない。縄文時代の頃の人間に自分の気持ちをリンクさせれば、力強くいきり勃つデカいちんちんなんてのは神さま扱いしたくならんでもないではないか。
また、古事記や日本書紀についてのエロ描写も色々と合点がいくわけだ。現代社会の感覚で読んでいけばエロエロと、じゃなくて色々とエロいな、となるわけだが、当時の感覚で読めば、ま~そうなるのかな~なんて思うのだ。うんうん、国生みだの生命だのはそうなるよな~と思うわけだ。

長々とここまで、ちんちんまんまんを祀ることとその周辺について書いてきたわけだが(てか、この記事を読んで頂ける人なんているのだろうか)、ま~、生殖器崇拝ってのは本来的には現代社会の感覚では理解し難いよな~と改めて思うのだ。ぶっちゃけ現代社会でちんちんまんまんを祀るなんてのはギャグとしてやってるとしか俺は思えない。現代社会でちんちんまんまんを祀るなんてのは、ど~考えても俺の下ネタと本質的には同じなような気がしてならん。ちんちんまんまんの祭だのをやってる自分達(寺だの神社だの)が自分達の祭りを「奇祭」とか言っちゃってるくらいだし。ま~それでも、ヘンタイ国家ニッポンの面目躍如といった感じで個人的には大好きなのだが、お嫌いな方がいらっしゃっるのも当然だわな~とも思うのである。
いやいや、それにしても俺、大好きなテーマとはいえ、一生懸命に書き過ぎではなかろうか。可能ならこの情熱をもっと別のものに傾けるべきなような気がしないでもなくもなくもなくもなくもない。

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