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サイエンス?考察?

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サイエンス大好きです!何かを考察したりするのも大好きです!
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#脳

ぶっちゃけ、俺も含めて我々ヒトはそのほとんどがバカだと思う

あ、いきなり煽りのよ〜なタイトルですみません。 でも、ホント、そ~思ってるんですよ。 ぶっちゃけ、俺も含めて我々ヒトはそのほとんどがバカだと俺は思ってるんです。 ここまでの文章でイラッとされた方もいらっしゃることと思います。ホント、それについては心より申し訳ないと思うのですが、しかしながら俺はど~しても我々ヒトって俺も含めてそのほとんどがバカだと思うんです。 で、「我々は皆バカである」とゆ〜前提を、世の中の多くのヒトが共有して頂けないかな〜と俺は夢見ていたりもしてるんです。

備忘録的なもの「セロトニン」

※大前提として : 我々サピエンスの心(=脳)は案外と簡単に脳内ホルモン(神経伝達物質)の影響を受ける 【セロトニン】 脳内で神経伝達物質として働く。 その分泌が多いとリラックスでき、少ないと不安を感じやすくなる。 また、我々サピエンスの攻撃性の程度にも関与している。その分泌が少ないと自分とは異なる考えや行動をなかなか理解できず、許せないと感じてしまう。つまり、その分泌が少ないと所謂「正義中毒」になりやすい。 その不足はメンタルヘルスの不調の原因になることがある。 【セ

備忘録的なもの「共感と分析(脳の話)」

我々の脳についての話。脳の科学の話。 どうやら我々は「共感」と「分析」を同時に行うことは出来ないらしい。 我々の脳がそ〜なっているとのことだ。 誰かに共感しているときや感情的に他者と繋がるときに使われる神経回路網と、分析的思考をしているときに使われる神経回路網は別々であるそ〜だ。それぞれは別のネットワークなのだと。 で、「共感」するときに使うネットワークが活発になると、どうやら「分析」に使うネットワークは抑圧されるらしい。また、その逆も然りだ。どちらか片方のネットワークが活発

備忘録的なもの「シャーデンフロイデとオキシトシン」

中野信子「シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感」の内容を自分なりに噛み砕き、また、己の頭の中にあるものも含めて整理する為に色々とここに書き記しておく。 ●シャーデンフロイデとは 誰かが失敗した時に、思わず湧き起こってしまう喜びの感情のこと。 他人の不幸は蜜の味。溜飲が下がる思い。自分にとってイヤな奴や邪魔な奴、嫌いな奴なんかが失敗しときに「ざまあ!」だの「ニヤリ」だのと思う感情。 【シャーデンフロイデはオキシトシンと深い関わりがある】 ●オキシトシンとは

発酵と腐敗

微生物がタンパク質や炭水化物などの成分を分解することを「発酵」という。 微生物がタンパク質や炭水化物などの成分を分解することを「腐敗」という。 え?同じじゃね? そう、同じだ。「発酵」と「腐敗」は同じだ。 では、何が違うのか。 科学的な原理は一緒で、明確な線引きはない。 どちらも微生物の営みだ。 我々人間の価値判断で言い方を変えているだけだ。 我々人間にとって「有益なもの」を「発酵」と言い、「有害なもの」を「腐敗」と言っているに過ぎない。 【↑発酵と腐敗の分かり易

人体から離れたもの

人間の体から離れたものは何だか汚いもののように感じてしまう。 例えば、髪の毛。 美しい人のサラサラした髪の毛は「いいな~」「ステキだな~」と思う。 でも、そんな美しい人の髪の毛であっても、ひとたび抜け落ちた髪の毛はただのゴミだと思ってしまう。 風呂の排水口のネットに引っかかった髪の毛なんかは余計にそう思うではないか。 可愛らしいネイルアートが施された爪も、ひとたび切られたものはただのゴミだ。 「うんこ」はどうであろうか。 人間誰しもが、その体内にうんこを宿しているわけだ

皆さんよく頑張っててエライ話(だから皆さん色々とあきらめましょう!)

皆さん、ホント~によく頑張っててエライわけです。 我々ヒトって、チンパンジーと共通の祖先から枝分かれしたわけです。 それがおよそ600万年前。600万年前から我々ヒトは、ず~っと狩猟採集生活をして生きてきました。 で、ようやっと1万年前くらいに農耕牧畜生活をし始めました。それまではず~っと狩猟採集生活をしてきたわけです。 ではここで、600万年前と1万年前を捉えやすくする為に、それらの数字を24時間で表してみます。我々ヒトの歴史600万年を24時間にして表します。これは、

心(こころ)とか、メンタライジングとか、進化心理学とか、その辺りの話

※それなりに長いです。8,000文字程度あります。 「心(こころ)」とは何であろうか。 何とも掴み所がないと言うか、俺のような凡人にとっては、どこから掴んで捉えればいいのか悩ましいテーマである。 何故、俺が「心(こころ)」なんてものについて考えているのかと言えば、梟さんが個人で開催されているコンテスト「表現とこころ賞」に文章を応募しようと思ったからである。↓ 応募しようと思ったのは梟さんの下にある記事を読んだからだ。 その梟さんの記事を読んで俺はかなり心を打たれたのだ

「進化心理学」という「どえらい武器」を我々は手にしてしまった 【 これは後出しジャンケンのような強さがある。無双かも。という話】

我々の脳ってものに俺はわりと興味がある。 今までもnoteに脳とかについて(しょ~もないダジャレみたいになってしまった)俺が思うことをつらつらと書いたりもしてきた(「我々の脳は世の中を善悪二元論で捉えてしまいがち」だの、「我々の脳は世の中を物語にしてしまう」だの、「サピエンスの限界」だの)。 でもってそれらは、話題になった本を読んだり、認知科学だのについて聞きかじったことを元に書いていたのだが、なんとここ、このnote内にも脳とかについて(重ね重ねしょ~もないダジャレみたいで

気合だの根性だのについて考える

「気合」だの「根性」だのといった類いものは、ど~しても忌み嫌われがちだと思われる(そうは思わない人が沢山いることも重々承知しているので、そういった方はご容赦頂きたい)。 根性論だの精神論だのそんなものはクソ食らえだといった風潮が何となく世の中にはあるだろうと思う。 分かる、分かるよ~。 みんながそういったものを嫌う気持ち、オジサンよく分かる。 「気合とか根性って、非科学的じゃね?何か理知的な感じしないし、具体的じゃなさそうだし、汗臭くて泥臭そうだし。」なんて思いたくもなる。

残念ながら我々(の脳)は善悪二元論で世の中を捉えてしまいがちだという話

我々は世の中の様々なことがらについて、善悪二元論のような捉え方をしがちだ。 こっちは正しい、あっちは間違い。 こっちは正義、あっちは悪みたいな。 そりゃ世の中を勧善懲悪ものの物語みたいにぶった切って捉えれば分かり易いし、スッキリする。 ま~、でも、当然のことながら、世の中はそんな単純ではない。実際の世の中は何が正しい側で何が間違っている側なのかは分からんことが多い。それぞれの側に正義があり、それぞれの側に大義名分があるなんてこともよく言われるわけだし。 法により合法か違法かと

俺の脳は間違うということ

物語にしてしまうらしい。 我々の脳の話である。 我々の脳はどうやら物語でものごとを捉えようとするらしい。(その辺りの詳細については千野帽子著『人はなぜ物語を求めるのか』や、山鳥重著『「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学』を読んで頂きたい) 脳が様々なことを物語にしてしまうというのだ。 なるほど、自分自身を振り返ってみてもそうである。 例えば、以下のようなニュースがあったとする。 「とある男性芸能人が障害だか強制わいせつだかの犯罪で逮捕されたらしい。そして、彼はアル