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死んだら座禅な。



生後1ヶ月から乳児院に保護され
2歳からは児童養護施設、
18歳からは自立援助ホームと
人生の半分以上を
社会的養護で過ごしてきた。

日々替わる職員、施設仲間。
児童養護施設にいる子ども達は
18歳、高校卒業までいる
と思われる事も多いが実は
家庭復帰をする子も多い。
いわゆる家族再統合というやつだ。

わたしは児童養護施設に2歳で
入所したが小学校の入学式の日に
施設の門の所で撮った写真には
ランドセルを背負った同学年の子が
わたし含めて4人写っている。
途中から入所した子もいて最大で
5~6人は同じ学年の子がいた。
しかし高校卒業時に施設に残って
卒園したのはわたし1人だった。
家庭復帰した子もいれば
里親さんの元に行った子もいる。
職員だけでなく子ども達も
出ては入ってを繰り返すのもまた
児童養護施設ならではだと思う。



児童養護施設で育った16年間

「死にたい」「消えたい」

と何度も思った。
母の日、父の日、誕生日、
ことある事に家族がいないのだと
思い知らされ現実を突き付けられ
友達を羨ましがっていた記憶がある。

"なぜわたしには親がいないのか"
"なぜ友達には親がいるのか"
"普通の家に産まれたかった"
"親じゃないくせに居なくなるくせに"
"仕事だからわたし達を育ててるんだ"

そんな事を小学校中学年の頃から
ずっと考えていた気がする。
わたしのいた施設は幼児さんは
別のユニットで小学校1年生から
高校3年生までが男女別の
フロアにいるような施設だった。

今はユニット化(小規模化)され
少人数にはなっているが当時は
15人近くが1フロアで生活していた。
それに対し職員は2人だった気がする。
ワンオペが過ぎるくらいワンオペ。

子ども同士の喧嘩、
子どもと職員の喧嘩、
毎日毎日騒がしくてどこかで
誰かが泣いていて怒っていて
時には本や物が飛び交う事もあった。
そしてそれが当たり前の日常だった。

喧嘩が始まれば職員は制止に入り
泣いている子がいれば慰める。
それに加えて通常業務である
宿題も見るしお風呂に入れて洗濯をし
寝かしつけた後に記録を打つ。

今でも覚えている職員と
何度も喧嘩した1番の理由は
職員と2人だけでゆっくりと
過ごせる唯一の大切な時間の
就寝介助(いわゆる寝かしつけ)。
「○時にお部屋行くね」
(時間は記憶が曖昧なため○で。)
と約束していた職員が時間を過ぎても
部屋に来ずそれでも待ち続けたが
やっぱり来ずそのまま寝落ちし翌日
「なんで来てくれなかったの」
と言う事が何度も何度もあった。
その時間だけは唯一自分と職員だけ、
誰にも邪魔されずに独り占めして
過ごせる貴重な時間だったが故に
来てくれなかった事実への不満が
通常の感情の何倍も凄まじかった。
他の子の対応、記録、諸々
職員が来れなかった正当な
理由はあったのだけれど当時は
"言い訳しないで"と突っぱねていて
喧嘩したまま職員が退勤する
という事もかなり多かった。

大切だと思っていた時間でさえ
「来ないかもしれない」と
不安な時間になっていき
来なかったら来なかったで
「また約束破られた、信じてたのに」
と思うようになっていった。

そんな事を何度も繰り返す日々、
そして去って行く職員を何人も
見送っていく生活の中で
「大切じゃないんだ」
「仕事だから見てるんだ」
「わたしはどうでもいいんだ」
と思うようになり全てが嫌になった。

わたしはいらないんだ
必要とされていない
もう死にたい消えたい

そう思った瞬間、
自己肯定感が一気に下がり
1度下がった自己肯定感は
底なし沼のようにより深く
どす黒い感情に引き摺り込んで
足掻けば足掻く程に沈んでいった。

やり場のない怒りや不満、
悲しみ、苦しみ、辛さ
どう表現したら良いのか
全く分からなかった。

リストカット

言語化が苦手で特に負の感情を
伝えられないわたしなりの
生きている、は
手首を切り刻む事だった。
気が付いたらハサミで
手首を切っては泣いていた。
でも職員にはバレたくなくて
気付かれないように長袖を着たり
こっそりと傷を隠していた。
最終的にバレて「もう切らないで」
と言われるのだが結局辞められず
手首を切ったらバレると思い
太腿やお腹、服で隠れる場所を
切るようになった。

切っていた当時はいかに上手く
隠せるか考えていた。
パーカーが必需品だった。
でも27歳の今、夏は半袖を着るし
傷跡も隠してはいない。
時々「隠さないの?」と聞かれるが
隠した所で過去は変わらないし
傷跡が消える訳でもない。
ふとした瞬間に傷跡を見ては
まあ複雑な気持ちにはなるし
消せるなら消したいとも思うけど
でも色んな感情と戦ってそれでも
生きてきたんだって思う。
痛かったかも覚えていない昔の傷跡。
でも必死に生きた証拠だと思ってる。
誰かを責めたり傷付けるくらいなら
自分が傷付く方が良い。
今もその考えは変わらないけれど


「辛い時は深夜でも早朝でも
   電話してきていいから」

「人間死ぬのは簡単だけど
   遺された人間は
   葬式の手配の方とかあるし
   まーじダルいのよ。
   だからまじで死んだら
   お化けになってても坐禅な」

と言ってくれる人生何周目?
と思うゆるゆる自由な女神な
だいすきな友人をはじめ
色んな人が助けてくれて愛してくれる
おかげで少しずつだけれど
負の感情を言葉にでき始めている。


わたしの周りの人達は
素敵な人達ばかり


性格や相性もあるから出会った人
全員がだいすき、とは言えないが
わたしは今関わってくれている
わたしの周りの人達は本気で
全員素敵な人達だと思うし、
自信を持って本当に素敵で
尊敬できる人達ばかりだと言える。
過去を話したり今こうして
noteで文字に残す事ができているのは
いついかなる時も変わらずに
真っ直ぐに寄り添ってくれて
愛を伝えてくれる人達がいて
その人達の愛を素直に
受け止める事ができているから。
施設にいた時にもたくさんの
愛を貰っていたのだと思うけれど
「いつかは居なくなる」
と思っていた人達からの
愛情はその人が辞めていった時の
喪失感、「また居なくなる」が怖くて
完全にシャットアウトして
見ないように受け取らないように
傷付かないようにしていたのだと思う。


愛は行動でも示そう


今日いる人が明日もいるとは限らない。
身をもって知っている。
だからこそ重いくらいに愛情は
伝え続けるし明日会えなくなっても
後悔しないくらい常に全力で愛を
すきな人達に伝え続けている。
だいすきだよ愛してるよ大切だよ
出会ってくれてありがとう。
重っ!と思われるかも知れないが
伝えたい時に伝えないと伝わらない。
大切な人が明日もいるとは限らない。
1日を大切に、愛情は惜しみなく。


愛してるよ。
読んでくれてありがとう。


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@kotocha_15

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