VS幸福、対戦よろしくお願いします。
人間の動力の一つに「怒り」がある。
悔しいとか、見返してやるぞとか、ナメてんじゃねぇ。そういった類の感情がガリソンになって、数多くの危機的状況を乗りこえてきた、という話は世の中非常に多い。自分にも経験があるので、気持ちはよくわかる。
しかし、人は幸せになると、この時の生命の輝きを失ってしまう。
必死になって「私を見て」「俺を見ろ」と叫んでいた時は、野生の動物みたいに色んな細胞がソリッドになってるから、「生」への執着みたいなものがあって目を見張るものがある。
息を止めて見つめる。まばたきをする一瞬すら目を離したくないような力強さが溢れ出る。これが命だ、と言わんばかりの力強さと美しさがそこにある。
それが作品だったり仕事だったり、なにか目に見える形で残る人ならわかりやすいだろう。
世に出始めたレディガガがBorn this wayを歌っていた時、私はテレビの生放送でそれを見て泣いた。
「私を見なさい」「私の歌を聴きなさい」といわんばかりの力強さが眩しくて、あまりにかっこよくて朝から号泣し、その日の仕事に遅刻した。
見る人を圧巻するそのパワーは、人の目を止めるのではない、人の足を止めるのだ。
でも、売れ始めてからその先、ガガは普通のセレブになってしまった。
普通に太ったり痩せたり、普通に恋したりしなかったり、もちろん才能や技術があるから今でもセレブでいられるわけだけど、あの頃みたいなパワフルさを彼女からもう感じない。
でもそれでいいのだと思う。
むしろそれでいい。
ずっとあんなにギラギラしてたら30あたりで死ぬ。自分の才能の無さや自分が大人になることを認められなくて死んでいくロッカーが多いのと同じ。人は歳をとるし、いやでも老いる。それが当たり前だし、それで正解なのだ。
だから、ギラギラしてた「あの頃」の自分の今の自分を比べて、もっと頑張らなきゃ、なんて思わなくていい。
その過程の中で得られた出会いや、お金や、経験から、少しずつでも人は幸せになっていいのだ。
「怒り」のエネルギーがなくなってきて、
それを根元にして活動してきた人は、
「もう自分はダメなのかも」とか、「怒りはあるけど昔ほど悔しくない、頑張れない」とか、エネルギーが尽きてきたことに嘆きがちだけど、
それはあなたが「幸せ」になってきている証拠だから、そのまま丸くなったって別にいいのだ。
何も悪くないじゃないか。
「怒り」を根元に走ってきた私達は、
幸せに慣れてないだけなんだと思う。
平穏や、穏やかな日々という毎日の価値を
まだうまく理解できていないのだ。
今、こうして文字にしながら
自分に向けて言い聞かせている。
どうか、
穏やかに暮らすことの幸福を、何にもないけど満ち足りてる日々のありがたさを受け入れていけたらいいな、と思うのと同時に、
「そんな人生はイヤだ!」
「そんな生き方は自分じゃない!」
と思うのであれば、
やはり死ぬまでそのままの感性で突き抜けていってほしい。
きっと流れ星みたいな人生になるだろう。
誰も真似できない輝きと、自分の身を焼き焦がすほどの熱量で、「人生で一度しか使えない魔法」を、死ぬまでずっと使い続ける。
なんてロマンチックなんだろうか。
出来るかどうかはさておき、破滅的なものはいつの時代もロマンチックなものではないか。眩しいのだ。一般人には真似できないかっこよさがある。どの時代でも太宰治を良しとする人間が一定数いるのと同じで、破滅的な人間は必ず一定の支持を得られる。
どうせ死んだら人間は骨しか残らないのだから、
穏やかに生きて死んで骨になるか、煌めきを求めて焼き焦げて骨になるかの2択を選ぶのみだ。
平穏な幸せに包まれて丸くなるのも悪くないし、いつまでも野犬のように尖り続けて死ぬのも全然悪くない。
ただ、どちらを選んだとしても、生きてて考え方も価値観も変わるから、いつだって『今』の自分を、自分で許してやって欲しい。自分の人生に花丸をつけられるのは自分だけなのだから、自分のことだけはいつまでも大切にしてやってほしい。
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※過激な思想の思い出話です。
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