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したことのない顔

「家では大変なことになってしまって。ご迷惑おかけしますが、よろしくお願いします」

ご家族の方が、わざわざデイサービスまで出向いて挨拶に来ていた。

大変なことというのは、排泄の失敗のこと。

認知症が徐々に進み、出来ていたことがちょっとづつ出来なくなっていく。

排泄の失敗は、ある意味では折り返し地点。分岐点とも言える出来事だと思う。この出来事を境に、どんどん加速するかのように状態が悪くなる場合が多いと感じる。

介護の経験がない人にとって、排泄の処理は一大事だと思う。
汚物の処理よりも、当たり前のことができなくなっていく現実を、猛スピードで受け入れていかなくてはならないことだ。
色々と出来ていた時の残像が邪魔をする。回復への希望を捨てきれない。母が、父が、旦那が、嫁が。

ご家族の心境を思う。ぼくは奥歯を噛み締めてため息を飲み込む。

挨拶に来ていたご家族の表情は、申し訳なさそうな恥ずかしそうな、泣き出しそうな覚悟を決めたような。そして、すがるような。
卒業、成人、就職、結婚、死別、離職、挫折、今までの人生のどの局面においても「したことのない顔」だと思った。

「かしこまりました。では、夕方お送りいたします。」

言葉数は少ないが、ぼくが返せる言葉はそれしかない。

トイレ誘導、入浴介助、排泄の処理。もう数えきれないほどやってきている。ちょっとやそっとのことでは狼狽えることはない。

けれど、ご家族の気持ちに寄り添うことだけは、感情や心の温度に振れることだけは、どれだけ経験を積もうとも、左胸の辺りをガサっとえぐられてしまう。

強くなる方がいいのか、弱いままの方がいいのか。わからない。

こうして文章にして、ぼくは心を落ち着けている。

その方は、夕方お家へ帰っていった。

このデイサービスが、ご家族の心の落ち着ける場所であると願っている。

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