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介護の過酷さ

一人介護をしている。
認知症の介護。
とにかくキツい。

これは、自力で、頑張っているとか
そういうことではないのだ。

よく頑張っているという言葉を皆がかけてくださる。

しかしである。
これは、ある程度、わたしがやらざるを得ないという要素が大きい。

なぜ、親を介護するのか?

子どもが親の面倒を見るというのは
人間だけだろう。

親を介護することを受け入れたとき
あるいは受け入れざるを得なくなったとき。

想像以上に覚悟がいることなのだと今更ながら
思う。

何度言ってもわからない。
段取りや順番がわからない。
着替えがこんがらがる。
突然の変化に対応できず激昂する。

さらに、被害妄想。
暴言、暴力的振舞い。

さっきも突然、テーブルを
割れんばかりに叩いていた。

慣れているけれど、
無意識に積もり積もった
緊張感は凄まじく、
どっと疲れる。

介護保険制度ができて、
少しは負担を外に求めることができる。

ただ、それでも残りの全ては
家族が全面的に負うことになる。

介護殺人という悲しい事件も起こる。

これは一口に「介護疲れ」が原因と言われる。
しかし、よく考えると、疲れるから殺人をするという理由が動機として語られる場面は少ない。

疲れの元は何か?

「孤立」である。

孤立は視野を狭める。
追い込まれる。

つながりがあるように見えながら、実は深く見て真相は「孤立」していると、絶対に詰む。

介護保険制度は、ケアマネや地域包括支援センターが関わっているとはいえ、人により、地域により、助っ人の側の関わり方が薄いものとなっていると、こちらからあれこれ頼む元気すらないこともある。

ケアマネに恵まれなければ、
どうしようもない。

不平を言ってるのではなく、現実である。

都市部の場合、多くの人員をケアマネが抱えているケースもあり、電話しても、なかなか捕まらないこともザラである。その数時間の中で、結構大変なことでヘルプを求めることもあるのだが。

結局、わたしが見るしかない状況が出来上がってしまうのである。

大家族ではなく、誰か一人が見るとなると、
もはや人としての生活が成り立たなくなる。

夜もよく眠れない。

一つ一つに付いていないとわからなくなるから、
やるべき家事、用事ができない。

家に一人で留守させることができず、
デイサービスの日以外は、外出できない。

厳しい現実に、へたり込む。

今わたしがなんとか耐えているのは、
孤立しないように、
あえて迷惑であることを承知の上で、
話を聞いてもらうことでしかない。

それで解決はしない。
しかし、こころが緩むのである。

この緩みが生まれるからこそ、
また頑張れる。

今日も無事1日が終わるだろうか。

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