言葉が絵になる話しの途中「宮崎滞在制作記」㉕ 言葉が絵になる感覚について

今日は言葉が絵になった感覚を描こうと思います。


今、宮崎に来ています。

そろそろ宮崎での滞在制作も終わろうとしています。

「言葉が絵になる話し」

という企画をやっていました。

どういうものかというと、

僕が宮崎に来て描いた詩を、

共同制作者である現代作家の小澤香奈子さんに対して朗読し、

朗読している時間だけで、絵を完成させていくという企画です。

「宮崎で描いた詩をもとに絵を描く」

ではなく「宮崎で描いた詩を朗読している時間だけで絵を描く」

にこだわったのは、


言葉が質量を持って現実に存在している間だけにしてもらう方が、

空間に物質として言葉が世界に存在している時間だけで絵を描いてもらった方が、

人間の意志(声を出そうという脳の意識)を起点に、身体を使って、声帯から発生する「声」という、すぐに消えてしまう儚いものでを描いてもらった方が、僕の詩の性質に合っているんじゃないかと思ったからです。


それと描いた紙を渡して絵を描いてもらうと、完成しているものを渡してそれに対して小澤さんがアプローチするということになり、


肉体を使って共同で作品を創っているということにならないのではないかと思ったということもあります。


紙やデータを渡して絵を描いてもらうのであれば、どこに居てもできます。

そうじゃないやり方でつくりたい。

滞在制作でしか創れないやり方でつくりたい。とおもいました。


同じ時間を共有しなければ、

彼女が手を動かしている間

僕も詩をこの世界に声という物質として存在させ続けなければ、

今回は一緒につくってたことにならないな。

素材の提供だけになってしまうしそれは嫌だなと思いました。


同じ時間を共有しないといけないという直感は、


この作品を、ただの詩と絵のコラボ!

という見栄えの良さだけで終わらせたくない。

新しい作品を創りたい!という気持ちから来ているものでもありました。


存在はしているけども、空気の振動が止まったとたんに消えてしまう「声」という状態の「詩」


言葉はどの時点で質量をもつのでしょうか。


僕の考えでは、言葉は紙に印刷されても、

質量を持っているとは思いません。

その状態は、読む人の頭の中にしかないものだと思います。

頭の中にあるものは物質ではない気がします。

言葉は人間の心に作用する記号です。

記号は記号のままでは物質ではない気がします。

自分ではない他者がこの世界の空気を振動させている時間だけ、

存在する言葉。

詩。

それを捕まえてもらいたかった。


詩をもとに構図を考えて絵を完成させるのではなくて、

生きている言葉を捕まえてもらいたかったんです。

野生の詩というかなんというか。


何故か僕は「振動」ということに今回非常にこだわりを持っていました。

この世界にあるものは生きているものも生きていないものも

すべからく振動しています。

ものには固有の振動数というものがあって、

僕が振動させて空気が存在している間だけ

詩がこの世界に物質として存在しているのだと仮定して


詩が生きている状態の振動数をずっと感じながら描いてほしかった。


木を描くときに木を実際に見て描くのと同じ感覚です。


実際の対象を観察しないといい作品は生まれません。


そうやって絵を描いてもらった方が、

紙やディスプレイで小澤さんが詩を読んで絵を描いて貰う時よりもより

「僕の言葉がきちんと絵になるのではないか」と思ったのです。


最初企画がスタートした直後はいくつもの詩を読んで、

小澤さんに主に絵の具を使って

「言葉を絵や色で捕まえる」という作業をしてもらいました。

こちらは、なんというか、顔合わせというかなんというか

お互いにこんなことやったことないので、まずは何が起きていくのか

やってみよう!という形で、お互い何も見えてない状況でやっていきました。

その時点で、小澤さんと僕はまだまだ一緒に何か制作しているという感覚は弱かったと思います。

今に比べると。

ただ、予感のようなものはありました。

僕の立場からすると

「言葉を絵にすると色やイメージ、そして筆の流れ」に言葉の意味が置き換わるのかというような感じです。

小澤さんからすると「言葉の意味じゃなくて、言葉を呼んでいるリズムや、声の強弱、そして読んでいる感情に引っ張られるんだな」というような感覚です。

面白いことが起きるかもしれない!という。


この作業で二人の中での誤差のようなものがだいぶなくなったように思いました。

あぁ。この制作は、どこにいくのかわからないけどこういうところから始まるんだなと。

実感として、身体に落ちていったと思います。


誤差というのは、言葉をどんなに使ってコミュニケーションをしても埋まるモノではないことが多いです。

例えば僕は地図のある場所を指していて、小澤さんもその地図を見ているしその場所のことも認識している筈なのに、どうも同じ場所のことを指していないような。

そんな感覚。

最初のこの作業は絵と言葉という言語の違う二つのジャンルの制作者が新しい同じ地図を描いていった作業だったんだと思います。

あぁ、言葉はこう絵で捕まえられるのかという感覚。

こちらの地図では、ここのことがそちらの地図ではここになるのか。

というようなことが朗読→絵という変換作業をしていく中で

言葉で説明しなくてもお互いが理解していったと思います。


詩は言葉を使いますが、言葉で言葉の外側の世界を描くのが詩です。


並んでいる言葉の意味を伝えたいのではなく、言葉が並んだときに出てくるその言葉たちの持つ以外の意味を伝えるために言葉を並べるのが詩。

絵はそもそも言葉ではないです。言葉の外側にあるモノ。

言葉の一般的な使い方のように、並べることで一連の意味を追いかけて理解する類のものではなく、

その絵があるだけで、その絵はもうその絵が持つ意味そのものなのです。

僕の言葉で言うとその絵はその絵でしか描けないものを描いている一つの「言葉」そういう気持ちになるように心に作用する一つの言葉。

ということになります。

何回も筆をおいてたった一つのその絵にしか持たせられない意味を持たせて

新しい言葉を創る行為が絵だとしたら

詩も、言葉の意味ではなく、その一連の言葉を並べたときにしか成立しない一つの「言葉」。たとえ何百の単語を使っていても、詩はその詩全体で一つの言葉で、意味そのものなのです。

ここでいう意味とは、説明ではなく、特定の作用を心と体に及ぼす言葉に出来ない本質的なもの。


詩、絵、両方とも言葉の外側にいるので、相性はいいと思っていました。


でも、正直、言葉が絵になるというのが、ここまでエキサイティングだと思いませんでした。


今まで書いた第一工程を僕は「言葉の捕獲」「理解」という段階だと思いました。

お互いの場所とお互いのことを理解する工程。

そして、そのあとに起こった第二工程は「分解」だと思いました。

第一工程で色・質感・流れとして捉えた詩を、分解して「カタチ」

をみつけました。

一般的には下書きの工程です。

この絵は最終的にパネルで制作します。

きちんとした制作物にするための設計図をつくりました。

この工程からは、

「第一工程で描いたこの絵のもとに作品をつくります」

という話が出来ていたので、

その絵を描いているときに読んでいた詩をピックアップして、

何度も読んでいきます。

同じ詩を何度も何度も短期間で読むことで

僕も理解していなかった詩の一面が見れたり

読みながら小澤さんの絵を見て、

小澤さんがかいた僕の詩(絵)に影響されて

その絵のニュアンスを反映させて声に乗せてみたりしました。

つまり、ここからずっと

詩を絵にして、絵を詩にして、詩を絵にして、

絵を詩にしての循環の状態に入りました。


絵と詩の境目が消えて、絵と詩が混ざりだして、

同じものになっていきました。


こんなおもしろい発見はありませんでした。

絵は詩であるし、詩は絵である。

絵は言葉であるし、言葉は絵である。


一緒にやってるからでしょうか。

この工程で既に完全にこれは僕の詩だと思いました。

絵の小澤さんも僕の詩を私の絵だと思ったということです。

人に向けて詩を読んでいる時というのは、いつもいいますが、

身体を空にして、言葉を身体にするという作業になるんですが、

それってちょっと通常の状態と違うんですね。

スポーツ選手だと試合中のようなもんなんですよ。

試合中って、基本、当たり前だけど、野球なら野球、

サッカーならサッカー、その競技の人しかいないですよね。

でも、今回は野球やってる横で、全然違う競技やってるって感じなんです。

それで一つのゴールを目指すというか。

今回、本来、ゲームとして成立するはずのないそれが物凄く親密に成立した!!!

地図は違うのに同じ場所をきちんと言っている実感!

小澤さんもそうなったそうです。

「普段はぜったにそんなこと思わないのに、筆を動かして絵を描いていても言葉を描いている気になった。私の描いているのは言葉だと思った」とのことです。


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