ことばの筋トレノート『芸術とは何か』
一言コメント
ブックオフで200円で購入。これほどの芸術家の生のことばと200円で触れ合うことができるブックオフはやはり神。
新書の100-200円コーナーはことばの筋トレの一番の味方。こういう偶然の出会いにこそ、リアルの価値がある。それは本も人も同じ。
美術館・博物館で支払う1500円が、何倍もの価値になる至高の一冊。
軽井沢の千住さんの美術館には絶対行きたいし、彼の作品・書籍を通じて、優れた芸術家の洗練されたことばを仕入れたい。
さらに別の言い方をすれば、何かを伝えあおうとしない、絵を描いて、ことばという記号を操ってコミュニケーションすることを諦めている人は、もはや人の間にないということか。言い換えれば、人間としての魅力がないということか。
私の言いたいことはなにか。
「人間」として、発信したいことがあるか、語りかけるべきことがあるか。ブランド作りも、商売も、「人間」を見つめ、生きることに前向きで、健全で、人間として正しいことは何かを深く掘り下げた先にこそ(p50)、優れたものを生み出すことができるのではないだろうか。これはつまり、ヒューマニズムである。
そして、「人間として」発信すること、語りかけることは、きっとロマンである。理解されることはないかもしれない。それでも、理解されたい。理解したい。ロマン以外の何者でもない。
ロマンチズムの源泉も、そこにあるのではないか。
私の「作品」は、ヒューマニズムとロマンチズムに立脚しているだろうか。
身内に、友人に、同じ民族に、世界中の同時代を生きる人に、全ての垣根を超えて、言いたいことが伝わっていくだろうか。
これは、私が直視したくないことかもしれない。
過去の自分のことばは、日記にたくさん詰まっている。しかし、その時の自分を超えて、常に作り替えていかないと感じているのかもしれない。そして、過去に答えがあるというのは決定論的で嫌だと考えて、実はなんとなく気づいていても、それに抗おうとしている気がする。
それでも確かに、「本当は何が一番やりたいか」と問われたら、答えの方向性はある程度定まっている気がする。
「苦しみ」というテーマなのだろう。自己実現や、夢や、地位や肩書き、成功、成長といった言葉の指向性を、内外から規定する強いディスコースから逃れるということかもしれない。
「苦しくなくても良くない?」
「自分で決めればいい。そのために必死で努力すればいい」
このことばが、彼女にかけることができなかった気がする。
尾形光琳の燕子花も、横山大観の富士山も、奥村土牛の桜も、自然の奇跡に対する感動を伝えようとしたのか。彼らに、「そうですか?」と尋ねたら、「違う」というかもしれないが、言語化されていない動機なのではないか。
言語の裏側に、意味の泉はない。言葉の裏にある、無意識の泉のことは、「本能」である。奇跡に対する反応、感動を、本能というのではないか。自然の奇跡、その美しさに対する反応の根源性は、日本画に限らず、人種、時代、地域、文化という全ての垣根を超えて伝わるものなのではないか。
藤沢武夫の言った「経営は芸術である」というテーゼが思い浮かんだ。
人と人が何とか心を通じさせようとすることの手段として、経営が、ブランドがある。
ブランドも、商品も、マネジメントも、相手の側に立って考えることがなく、一方的であっては決していけないということ。
これこそが、私にとって今最も足りないこと。
目の前の身内と、友人と、同僚と、新しい取引先と心を通じ合わせることができない、通じ合わせようと死ぬほど考えない、通じ合わせることから目を逸らしている人間が、あらゆる垣根を超えて、同時代を生きる人々と心を通じ合わせるようなものが作れるか。
自分ではなく、他者を優先する。無我。私は存在しない。
優れた芸術家は、起業家は、話を聞く。相手から引き出すのが上手い。それは、心のそこから相手を知りたいから。愛情を持っているから。そこに利害はなく、相手の立場に完全になることなどできない限界を知りながら、それでも相手を知ろうとするから。
一方的になることなく、心を通じさせること。そのために自分を作り替えないと、何も創り上げることはできない。芸術としての経営が実現することは、絶対にない。
そのために、ことばのレベルで相手のことを、他者のことを、お客さんのことを、意識的に考えるように癖をつける。そのための訓練をする。
「自分にとって意味があるかどうか」で人と関わるな。「相手にとって意味があるかどうか」、「相手にとって意味ある時間にできるかどうか」で人と関われ。それができている関係もある。そこから謙虚に学び、そこでの態度、ことばの使い方を学べ。
芸術を鑑賞するときも、作家が何としてでも伝えたかったことをことばで死ぬほど考えながら、全力で向き合え。
実践済み。
美術館の用意したナラティブを第一に、頭からお行儀よく見ることを第一とするのをやめる。お目当てに直行し、じっくり時間をかける。
その後で、美術館のナラティブに沿って学ぶ。
心の中にあるイマジネーションをコミュニケーションしようとして、人はことばという記号を用いる。ことばと芸術は、同じ役割だ。
「心の中にあるイマジネーションなんて存在するの?」という実在論的疑問が思い浮かんだ。
芸術作品を生み出す過程で、心の中に「実はあった」イマジネーションの存在と、その大切さに初めて気が付くのかもしれない。そして自分の心の中に「あった」、「わかってほしいこと」は、芸術として、ことばとして出力されたときにはじめて存在するのかもしれない。
東京国立博物館で開催された国宝展。驚いたことは、全体の4分の1ほどが刀剣であったこと。
刀剣の芸術としての意味。なぜここまで美しい必要があるのか。生死という生命の根源に一番近い武器だからこそ、生に対する執着の現れとして美しくなくてはならないということか。これが全てではないとは思うが、好きな解釈。
すごく好きな考えである。圧倒的に共感することができる。
「俺たちにしかわからない。お前らにはわからない」
こういうことが多すぎる。そうじゃないだろう。
「私は一人ではない、同じ人間同士だからわかりあうことができる」と私が強く感じたのは、アニメーションという芸術を通じてだったことを思い出した。
千住さんも、アニメーションは芸術であると言い切っている。私にとって、芸術の中心にあるのはアニメーションだろう。
寒く、暗く、孤独なリーズの街。孤独で孤独で、ベッドから動けなくなっていたとき。それを救ってくれたのは、人。友人たち。彼らを連れてきてくれたのは、アニメだった。
あらゆる垣根を超えていた。
クラナドで泣いた、Ariaで寝落ちした。
ことばを超えて、同じ感情と感覚を持っていて、それを共有できることの奇跡。
エンターテイメントは芸術だ。私たちは、わかりあうことができる人間なのだな、と思わせてくれた。
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