KUREHA.A

社会に、家に、自分自身の中に、居所を見いだせない誰かの声を聴くのが生業 南インドの先住民や山谷の元日雇い労働者に出会い、精神保健福祉の世界へ 現在は、長野県上田市のNPOで活動 その瞬間にからだの中にあることを言葉にしたらどんな感じか この場で実験してみようと思う

KUREHA.A

社会に、家に、自分自身の中に、居所を見いだせない誰かの声を聴くのが生業 南インドの先住民や山谷の元日雇い労働者に出会い、精神保健福祉の世界へ 現在は、長野県上田市のNPOで活動 その瞬間にからだの中にあることを言葉にしたらどんな感じか この場で実験してみようと思う

最近の記事

自己紹介的なもの 2022の秋ver

はじめに めざしているのは 存在の肯定と、助かり合う誰かにつなげる その二つ 存在の肯定とは 関係性の中に  対話の中に ここにいていいんだよ というまなざし   受容   身体の解れ  安心 信頼 共に食べることの中に  躍りの中に  哀しみのままたたずめることの中に   自分と他者の溶け合いの中に それを感じることができること 助かり合う誰かとは 場   記憶   声    表現  言葉  森や動物などの自然   家族でもない誰か そういうものの存在に、生かされ生かし

    • あなたへ

      拠り所が無かったり 縋るものが無かったり 愛することができなかったりするとき 迷走し 血迷いながら 誰かを傷つけ 暗中模索の中、なにかを探し続ける それは言葉であり 空気であり 時間かもしれない 本や 誰かや 歌の中に ぐっと胸を掴まれるものが見つかるとき あぁ もう少し生き延びられると安堵する

      • 言葉の鬼ごっこ

        チョコレート食べたのにさ 全然どうにもならんのだよ そんなぼやきを聞いていた友人が それは、クレハさん、チョコレートに全信頼を置きすぎですよ と言われて笑った そうか、わたしはチョコレートに全信頼を置いていたのか 信頼と言うか、信仰に近いな、もう なんてことを思った これがあれば大丈夫というお守り的なものが いつの間にか信仰の対象になっていたりする そこには、思考の止まるプロセスがある この人が言っていることだから信頼できる この雑誌に書いてあることだ

        • Ⅰぞーん始動

          4年ほど前から、生きづらさの自助グループという、言いっぱなし聞きっぱなしで自分の生きづらさや、そのとき話したいことを話す場を仲間と開いている その中で、ギャンブル依存症と長く付き合っている一人が、依存症の自助グループを自分の暮らす地域で始めたいと言い出し、今月からスタートした GAやAAのようにテキストを使うか、言いっぱなし聞きっぱなしにするか、型を決めるかどうか、来た人たちと話し合って決めようということにした 会の名前は、「Iぞーん」 依存 → いぞん → いぞーん

          目に見える

          雪が降ると 森の中の動物たちが見えてくる ウサギやキツネ、鳥や鹿など 雪の上に残された彼らの足音をたどると、彼らがついさっきまでいたんじゃないかと錯覚しそうになる 雪のない季節は、物音がしたり、姿が見えなければ意識したりもしないのに そう 否が応にも 目に見えると意識する 音やにおいは一瞬で 感触も触れているときその時だけで でも そのものが 視界にある限り、目には情報が入ってくる 見える を通して わたしたちはなにを感じ、それはどういう行動を呼ぶんだ

          目に見える

          〇〇共同性

          上間陽子さんの言葉にもたれたいときがある 個人から発せられたものを遥かに超えた 何百、何万の女性たちや若者の闇がその言葉の波には乗せられている 一対一で話を聴くことは、個別的な話を聴くことと同時に、まだ声を出す発想すらない多くの人の声を聴くことでもあると感じる 聴いているときは、ただ聴く、聴くことをただただする それは瞑想のような祈りのような時間だ 相手と自分とのあいだに目に見えないけど確かに感じるなにかが巡る時間 その時間が終わった後は、語られたことが何だった

          〇〇共同性

          かぼちゃを切るからだ

          かぼちゃを切るには気力がいる よし! と思って包丁を持ち、肩と腕に少し力が入る 刺し込む角度を間違えると包丁が刺さったまま動かなくなったりする そこに立ち向かえる気力がない なんだか力が湧いてこない かぼちゃが野菜で一番好きだ 蒸しても焼いても揚げても煮ても かぼちゃがあれば幸せになる なのに辿り着ける気配がない 包丁を握りに台所に立つことすらできない 冬を越すと一層かぼちゃは堅くなる 今のわたしの頭のように かぼちゃが切れないことは わたしにとって

          かぼちゃを切るからだ

          浅い呼吸と安心の同居

          大丈夫ですか? 心配です (時には 死にそうな顔してますよと) 毎日のように声をかけられる そんなにわたしは大丈夫じゃなさそうなのだろうか 疲れているのに無自覚なのは、今に始まったことではない 思いがけず精神科病院で働き始めて12年目の2023年6月末、退職して病院の外に出てから半年余りで、わたしと世界との関係性は、がらがらがらと音を立てて変わってきている 病院にいるときは、意識して白いブラウスを着て、穏やかに呼吸を落ち着かせ、できる限り受容的な人であろうとした

          浅い呼吸と安心の同居

          死にそうな確認

          カステラばかり食べている 気づいたら カステラをレンジであっためた豆乳で流し込んでそれを食事と呼んでいる 思い返せば、「食への表出」 これは、一つのテーマだった 家族や恋人や世界との関係がズレまくって手が付けられなくなっている女性たち(時に男性も)の心は、胃袋そのもので いろいろな表出の仕方で食との関係性もまたおかしいことになっている たとえば3,4日食べないのがふつうだったり、果物しか食べなかったり、チュウイングをしたり(呑み込まずに噛んで出す)、吐くために食

          死にそうな確認

          バランスを欠いていく

          気づいたらくるぶしまで冷たい沼に浸かっている その冷たさは胸まで届いて からだの芯から冷えている からだの中で凍ったその冷たさは、つららのようにとがり私の胸を内部から突き刺している 後ろからは背中の中央に何かが刺さっている 分厚くて冷たくて鋭利ななにかが このままこのからだがあたたまることなんてあるんだろうか バランスをずっと欠いていて バランスなんて欠いていこうと思っているけど この際、こまめに転ぼうと思っていたけど 背中が傷んで立ち上がることもままなら

          バランスを欠いていく

          束の間

          仕事の日取りを間違えて 1時間半、家に帰ってきた 昼間に家に居るなんて いつぶりだかわからない 庭に届いた秋を眺めて 庭の土をこんなにゆっくり踏んだことも ここ数年なかったなと 息を吸ってみる 常夏が終わったら 世界が終わるような気がしていたこの夏 世界はまだ終わっていないけど もう終わったようなもので 絶望の雲に包まれている いい人に出会っても おいしいものを作っても きれいな景色を見ても からだを使って労働しても 僕の人生は苦しいまま

          ごつごつした震え

          前からだったかもしれない ここのところの出会いで気づかされて 圧倒され立ち尽くしそうになる 出会う人、出会う人から ごつごつとした まだほとんど光を発していない鉱石の原石のようなものを受けとっている 本人たちは、無造作に、これ、拾ったんですけどと渡してくるが 渡されるわたしのからだは、震えている その原石のようなものは、世界の捉え方を大きく転換するような そんな力を持っている その石の囁きを聴き こんな風に言っているよと 誰にどう伝えていったらいいんだ

          ごつごつした震え

          痛みと絶望 そこからなにが

          今日、「身体のスキャンダル」という名のワークショップに参加し、「スマートな悪」という本の存在を知った このカントの言葉に続く言葉 痛みは、現在「私」が置かれている他者との関係を「私」に放棄させ「私」を自分自身とだけ関係させるよう強いる 毎日毎日、死にたいと連絡してくる若者たちの多くが、自分自身とだけ(過去と未来の)の関係にうずもれているように感じていたので、これはと思った ここで表される「痛み」は、「トラウマ(による心的外傷)」と置き換えることができるのではと思う

          痛みと絶望 そこからなにが

          底まで食べるには

          11年と3ヶ月 長すぎたと思う反面 なにかしてこれたんだろうか とも 省みて 省みて ただ  ただ 毎日 問いを与えられ続け 今も両脇に抱えてどうにか歩いているような そのどれもが解きかけで 手をつけてないものも多々あり 重くて手が痺れてきてるのに 自分だけの力だけで持っているわけではない いつか解き終わる日は 果てしなく遥か彼方な気もするし ハッと頭を上げたら見えるような気もする 11年と3ヶ月やってきたことは 蓋についたアイスを舐めただけ カ

          底まで食べるには

          未完の人

          この写真、誰だかわかる? と、小4になった甥っ子に聞いてみた 考える間も無く甥っ子は 「じいじとゆばちゃん?」 と答えた 思わず柔らかな頬にかさついた頬を擦り合わせた 「わたしも小学校6年生までこれじいじとゆばちゃんだと思ってたんだ」 と笑って返した 横1メートルほどのしっかりした板に貼り付けられたその写真は わたしの幼い頃の両親の記憶そのものだった ここ2年ほどの時間をかけて 母は少しずつ言葉を、記憶を、家事を、仕事を、手放した 3月末で最後の仕事を

          未完の人

          支援とか被支援とか

          ある日の午後 「『パンツはかせてあげましょうね』って 言われてるみたいで、すっごい腹立つ!」 と言って 相談室に飛び込んできた彼女 どういうことかと話を聴くと 通っている作業所(就労継続支援B型事業所)で 支援者に言われること、されることすべてがそう思えて耐えられないというのだ 彼女は、一人暮らしをして運転もするし、常に恋人もいて 親とはよく喧嘩しているが、精神的に自立した人だ 「うまいこと例えますね」と心から感心すると、少し緩んで笑みがこぼれた 支援する

          支援とか被支援とか