自己紹介的なもの 2022の秋ver
はじめに
めざしているのは
存在の肯定と、助かり合う誰かにつなげる
その二つ
存在の肯定とは
関係性の中に 対話の中に
ここにいていいんだよ というまなざし 受容 身体の解れ 安心 信頼
共に食べることの中に 躍りの中に 哀しみのままたたずめることの中に
自分と他者の溶け合いの中に それを感じることができること
助かり合う誰かとは
場 記憶 声 表現 言葉 森や動物などの自然 家族でもない誰か
そういうものの存在に、生かされ生かし、相互に生きているという実感
そのための日々、一滴一滴
その瞬間に立ち会うことで共有するえもいわれぬ生き心地
根っこ
両親は昔、演劇人だった。劇団が解散してわたしが生まれ、その仲間がよく遊びに来ていた。サラリーマンになったのはわたしの父だけで、ほかの大人たちは小汚い格好で我が家にご飯を食べに来たり、ときに舞台の上で朗読していたり、気功や断食をしたり、芝居を観に連れて行ってくれたりした。今思えば、どうやって生計を立てているのかよくわからない人ばかりだった。母も父も親という役を演じることなく、ひとりの人として自分のペースで関心のある方向を向いて暮らしていたので、どこかで親らしさを求める自分もいたが、時々訪ねてくる大人たちがそのあたりをフォローしようと私たち姉妹を育ててくれたような気もする。
そんな子どもの頃に傍にいた人の眼ざしや耳を澄ませる様、掌の感触というものが今日のわたしの根元に、ひっそり、しかし確かに座しているのを感じる。
10年のあいだ
浅間山の麓にある精神科病院でソーシャルワーカーとして働き始めたのは、2012年の4月。3.11を機に信州に移り住んで1年が経った頃だった。社会的入院者も多く、退院先は調理や掃除、薬の管理などを世話人が行う入院と変わらないような管理保護的なグループホームで、そこから就労継続支援B型に通うという生活が最も安心安全な「地域生活」の型として用意されていた。それまでに働いていた東京の三鷹や茨城県北の精神保健福祉の現場では、食パンが好きな人は三食食パンで誰も文句を言わなかったし、利用者と焼鳥屋に行って乾杯したり、恋愛の相談にのってもらい泣きしたりもした。病を経験しても人としてあたりまえに街の中での暮らしが保障されていたのが信州では全く通じず、ガーンと頭を殴られたような、何十年も前にタイムスリップしたかのように感じる日々だった。
そういう中で力を入れてきたのは、社会的入院者の地域移行と、当事者同士が語り助かり合う場作りだった。それらを進めていくことで、精神的な生きづらさを抱える人たちと、まだその自覚のない人たちが出会う機会が増え、交わり合いを通して、社会的または自己のスティグマに気づき解し合ったり、双方の生きづらさが和らいでいくのではないかと考えてきた。
地域移行の取り組みとしては、保健所、県の地域移行コーディネーター、市町村などの関係機関に、どれぐらいの人がどんな想いで病院に何十年もいるのか知らせるために情報を見える化(退院困難阻害要因のアンケートを患者・家族と看護師を対象に聞き取り調査し共有)し、全ての長期入院者と実際に会って話をする機会をつくったり、地域生活をしている当事者に来てもらって対話の場をつくった。患者さんにとっては、地域に迎え入れてくれる人がいるとわかって退院への動機づけとなり、行政や事業所も顔が見えることで自分たちの役割のイメージができるようになり、だんだんと双方の心が開いていくのを感じた。
当事者同士が語り助かり合う場の必要性・・それを感じたのは、地域移行で患者さんの聞き取りをしていく中で「あぁ、この人たちは長い時間をかけて自分の言葉を喋らなくさせられてきたんだな」と感じざるを得なかったからだ。自分の中で起こっていること、見えているもの、感じていること、それを言葉にすれば否定され、病気と言われ、薬を飲まされ、入院させられ、それっきり。それまでの人生や人間関係とは分断され、患者として病院で生活する毎日。誰も迎えに来ない。
ある患者さんは「病院の中で生活していると不安も薄れるが、新しいことをやる気力が出てこない」と話してくれた。その人は、退院後むくむくと力を発揮するようになり、ピアサポーター になって社会的入院者の支援をしたり、支援者向けの研修講師を担ってくれている。昨年、その人と一緒に精神科病院の看護師を主役にした漫画を書いている漫画家からインタビューを受け、その内容が生かされた作品が出版された。巻末の協力者の欄にはフルネームが掲載され、一緒に喜んだ。
自分の言葉を喋らなくさせられてきた人たちが、その人のようにリカバリー(自分らしく回復)するには、家族の話、会いたい人の話、嫌なことの話、聴こえる声の話、どんな話をしても大丈夫な場や関係性が必要だった。方法はなんでもよかった。
その一つが、北海道浦河町のべてるの家で始まった当事者研究であり、アメリカで開発されたWRAP(元気回復行動プラン)だった。まずは、当事者研究を体感するため、浦河町の幻覚妄想大会に参加したり、べてるの家の人たちの語りを聞きに大阪、名古屋、群馬、東京に当事者と一緒に出かけた。そして、自宅で始めてみた。毎月1回の集まりには、支援職や当事者、農家や会社員など色々な人が参加した。自分自身で体感しないことには、病院で広めていくことはできないと思い、自己病名をつけるところから始めた。(その時の病名は”パートナーの警告無視からだの声聴かない症候群”だったと記憶している)自分を知っていくその過程は、時に恥ずかしく、人にこうじゃないか、ああじゃないかと言われることへの抵抗感や違和感も含めて味わい深いものだった。
その後、同僚のOTと一緒に入院・外来まぜこぜで当事者研究の場を開いた。なかなかの濃いメンバーが集まり、普段話せない幻聴妄想の話や、医者との診察場面の話、薬の話から、家族や近所づきあい、趣味のクラシック音楽の話まで様々な話題が挙がった。安心のための合意を話し合う中で、普段の関係性を超えて対等に苦労を抱える生活者としてその場にいることを確認することはとても重要だった。最初はPSWやOTが進行役をしていたが、地域でピアサポーター が養成された後はピアサポーター を招き進行や運営を担ってもらった。現在は、入職4年目のピアサポーター 兼PSWを中心にデイケアで月2、3度場が開かれており、当事者視点の(まだまだ)貴重な資源の一つになっている。
声を出す 言葉にする
当事者の声が出せる場にこだわってきたのは、生い立ちに拠るところも大きい。
よくわからない大人たちが出入りする以外にも、わたしが育った家の中では普通(があるのかどうかわからないが)とは違うことがたくさんあった。その一つとして、毎日女の人から父親あてに電話がかかってきていた。それも日に2、3度も。長い時は1時間以上話をしていたその相手は、父の同僚で障害を持っていると聞かされていた。母は嫌がって子ども達を電話に出させるので、長女のわたしが出ていたが「父はいません」と居留守を使おうとすると「いるんだろ!出せ!〇〇出せよ!」と父の名前を呼び捨てにしてわめき散らす。切っても切ってもかかってくるので、結局かわる。そのうち、わたしは電話を渡しながら、父のことを蹴ったり、罵ったりするようになっていった。父は、相手の声を「うん、うん」と静かに聴き続け、わたしが何を言っても何をしても怒らず受けとめ続けた。その相手はわたしが高校1年の時に亡くなって、ぱたっと電話はかかって来なくなった。しばらくの間、10年以上続いたあの日々はなんだったのかと両親に訴えたが、2人共少し哀しい顔を浮かべるだけで答えは返って来なかった。
物心つく頃から思春期のあいだは、家の中ではそのやりとりが日常で、ピリピリする空気の中でわたしの気持ちは言葉を持たないまま宙に浮いたり、沈殿していった。
友人たちの中には、言葉にならない気持ちを掬おうとしてくれる人もいたが、誰かに自分の中にあるものがわかるわけがない、わかってたまるかと扉を開けずにふるまった。そういう幼い自分や、哀しい顔をした両親が、何も気にすることなく言葉を紡げる場所があったなら、その声を聴きたい、そうずっと思ってきたのかもしれない。
この10年余り、社会情勢や、その時々のトピックなどにも影響を受けながら、自分の想いと衝動に突き動かされてやってきたが、ソーシャルワークのような対人援助の仕事を選んだ人たちの中には、そういった自身の奥の方にある原体験が職業(生き方)選択に根ざしている人が多いのではないかと思う。そして、それを言葉にしていく場や関係性があると、よりかかわりの質を豊かにしていくのではないだろうか。
WRAP(Wellness Recovery Action Plan)=ラップ
「元気回復行動プラン」
名前を聞くと、ポジティブな響きでなんだかしっくりこない。当事者研究のようにユーモア交えて病の経験を深掘りし、弱さを通して誰かとつながるというスタンスとは違い、そもそもWRAPでは病にフォーカスせず、元気な(いい感じの)自分を意識することから始まるというから、どういうものなのだろうと勘ぐっていた。
そんな印象を捨てきれぬまま、当事者ファシリテーターが全国的にWRAPを広げる活動をしていると知って研修に参加した。当事者と支援者の対等性がその頃のテーマだったので、WRAPにその希望を見出そうと思った。そして出会ったのが、増川ねてるさんだった。彼は、研修の冒頭、参加者60名に向かって「みなさん、自分をいたわってますか?」と問いかけた。"いたわる”ってどういう意味だったか・・と頭の中で「?」が弾けた。彼は、自身の精神的な生きづらさの経験、回復の中で力になった出会いや気づきの話を惜しみなくしてくれた。その中で、WRAPをどのように使ったのかを実感を伴う言葉で語った。それはとんでもなく私をエンパワーメントした。当事者が支援職を思いっきり飛び越えてゆくのを肌で感じた。これだ!と思った。
さっそく小諸に帰ってファシリテーターを養成するための研修を開催する準備にとりかかった。2017年の夏と秋に全日程7日間の研修を経て、東信地域にファシリテーター10名が誕生した。内訳は、保健師、看護師、PSW、OTなどの専門職と、当事者3名だ。このメンバーでWRAPについて、リカバリーの文化について広めていける・・当事者を交えた対等な学び合いが始まった。
WRAPは、本人が作る本人のための心の取扱説明書と言われ、作っていく過程で、自身のこれまでの経験や感覚、大切にしてきた価値観などを言語化していく。自分で自分を助ける力を発動させたり、助けてほしい時にどう助けてほしいかを周りに伝えておくものとして日常生活の中で使っていく。
ファシリテーターが開くクラスには、誰でも来られるまちなか講座もあれば、助産所で子育て中の母親に向けて、また病院や地域で精神障がいをもつ人の家族に向けてなど対象を限定している場もあれば、夫婦間の関係性WRAP(指摘し合うのではなく、いい感じの関係性を保つためにやれることを出し合う)を個別面談で行ったりもしている。2022年現在、東信地域の5市町の保健師や大学教員からの依頼でクラスを企画し開いている。
クラスでの対話は、心を楽にする。自分には、自分を助ける力があること、これまでも助けようとして色々なことをやってきたことに気づいたり、他の人の助け方を知って、励まされたり、希望が抱けたりする。自分の経験や想いを否定されず、聴いてもらう場があることで、その人の日常が変容していく。
相互存在であるという実感
精神科病院の仕事のほかに、4年ほど前からNPOで自殺相談や女性・若者の相談の活動をしている。その活動から派生して、コロナによって人が集まる場が閉じられ、家の中で孤立したり居場所をなくした女性や若者が気軽に泊まれるやどかりハウスという宿が、同じくコロナで客足が遠のいたゲストハウスの部屋を活用して始まった。宿には、子育てに疲れた女性、家庭で閉塞感を感じている母子、家族からの精神的暴力から逃れる学生、ひきこもりがちで自立に向けて何かを変えたい青年、親の介護を続けてきた女性、派遣切りにあって住まいを無くした人・・など多様な人たちが駆け込んで来る。それぞれの置かれている現実や立場から離れ、気持ちに向き合ったり、一人の時間を味わったり、想い想いの時間を過ごしてもらう。家に帰っていく人、新しい場所に身を移す人、その先はいろいろだ。
ゲストハウスの台所や共有スペースでは、旅人なども交えて、楽しい宴が生まれる夜もある。病院や児童相談所などの施設の壁の中では、患者や被虐待児と支援者がいるだけだが、この宿には多様な人たちが行き交い、一日として同じ日がない。これは、援助職だけでは到底作り得ない環境であり、劇場を兼ねたゲストハウスという磁場の力だと思う。
ネグレクトされてきた一人の女性が「なにもかもうまくいかないのは自分のせいだと思ってたけど、やどかりに来て環境のせいだったって気づきました。わたし、この街で生きてみたいです。」と話してくれたこともあった。
支援スタッフも多様で、企業勤めの人、グループホーム管理者、若者支援のNPO職員、精神科病院のPSWなど、それぞれに現場を持っているソーシャルワーカーがインテークチームとなって宿に来る人たちとかかわる。必要に応じて適切な機関につなげたり、家や仕事を一緒に探すなど継続的なソーシャルワークを行うこともある。チームの外枠では社協の生活困窮支援担当者や妊娠SOS、総合病院のMSWもオブザーバーとしてチームにかかわる体制をとっているので、資源につなげるための情報も得やすく、抱え込まずに多様な視点でかかわりを展開することができる。このチームの中にいれば、どういった人が飛び込んできてもどうにかなると感じる。そういう安心感がこちらにあると、飛び込んできた人もこれ以上傷つかずに済むのではないかと思う。
やどかりハウスが生まれるのとほぼ同時期に、のきしたという活動が生まれた。
上田市内の劇場犀の角に夜な夜なコロナの分断に悶々としているメンバーが集まり、今だからこそなにかしようと小さな炎が灯った。それから一人、また一人と、映画館スタッフ、ひきこもり支援員、高齢者のデイサービスの管理者、市議会議員、県庁職員など(立場を書くと顔が見えずもどかしいが)それぞれに現場を持つ人たちが集まっていった。のきしたのおふるまいでは炊き出しをしたり、農作物などの資源を配ったり、衣類を交換し合うくるくる市を定期的に開催し、お金ではなく時間や経験を共有し合うという時間銀行の取り組みも始まった。どの場でも、制度というシステムでは生まれない、ゆるやかだけれど声をかけあえる関係性が生まれている。支援する・されるという境界線はなく、そこにいる人は意図せず自然と、一人一人がそれぞれ自分にとって、そして誰かにとって助かり合う存在になっていく。
おわりに
存在の肯定と、助かり合う誰かにつなげる
その二つが叶う環境づくりが、ソーシャルワーカーの仕事だと一人一人の生きづらい人たちから教わった。
形あるシステムの中で、傷ついている人たちも多くいる。
自分が誰かを傷つけうる存在だということに自覚的でありたい。いつも今この瞬間も。
(以上、2022年秋に書いた「ソーシャルワーカー最前線 現場主義」という冊子へ寄稿した文章です)
秋山 紅葉
精神保健福祉士、公認心理師、WRAPファシリテーター
NPO法人場作りネット理事・相談員
NPO法人らしく理事
南インドの先住民、山谷の元日雇い労働者たちとの出会いを経て精神保健福祉の世界へ
2011年4月東日本大震災を機に長野県へ移住
FM78.5 はれラジパーソナリティ(番組名:心のラジオ COCOらじ)
WRAP小諸、生きづらさの自助グループなどの運営
2023年夏~2024年初夏の現在、上田市の海野町商店街にある劇場兼ゲストハウスの駆け込み宿「やどかりハウス」のコーディネーターとして活動中
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