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「ああー、困った、困った」と言う人が、必ずしも困っている訳ではない。決める習慣について。

「ああー、困った、困った」といつも言っている印象の人が、特に行動に移さず不思議に思うことって、ありませんか?

他人のフリ見て我がフリ直せ、とはよく言ったもので、自分の行動だと、サッパリ感じないその矛盾やちぐはぐ感に気付くことができますね。

最近気づいて衝撃を受けたのは、「困っている」と言う人が必ずしも困っている訳ではない、という事象です。


困っていると言う人が必ずしも困っている訳ではない

知り合いのAさんの話なのですが。

Aさん一家は事情で実家を離れることになり、一時的に親戚のBさん夫婦がその実家に住むことになりました。

人が住まないと家は寂れますし、防犯や近所の手前もありどうしたものかと思っていたAさんでしたが、たまたまBさんが住んでくれることになり渡りに船だったそうです。

Bさん夫婦にとっては、家賃がなく住めてかつ好きなガーデンニングや畑仕事ができるので、お互いWinWinの状態でした。

元々古い家だったので雨漏りがしたり、大雪が降って重みで樋が壊れたり、と修理が必要になります。生け垣は定期的に刈らないといけませんし、メンテナンス費用がかかります。

AさんはBさん夫婦にそれらの費用を支払い、いろいろと面倒を見てもらっていました。

実家をどうするか決めかねていたAさんでしたが、10年近く経った頃、実家を処分することに決めました。

AさんはBさんに事情を話し、住み続けるのであれば家を無償で譲る旨を伝えました。Bさんはご主人と相談するとのことだったので、Aさんは回答を待ちました。が、一向に返事がありません。

Bさん夫婦には家がありましたがそちらの家も古く、年老いた体で住むにはAさん宅の方が構造上都合が良く、庭もあり、譲り受ける方がいいかと思いきや。

田舎で病院が遠い、交通手段が車のみの地域のところ、加齢で車の運転も難しくなってきている、という厳しい条件で、判断が難しいだろうと思われました。

ただ、ちょうどその頃Bさん夫婦の長女が一緒に住もうと打診をしているという話だったため、家族の話し合いで何らかの結果が出るだろうと思っていたそうです。

しかし、待てど暮らせど連絡は来ず、Aさんは気を遣いながらもBさんに、それとなく進捗を確認したそうです。

すると、ここは田舎だから病院通いも大変だ、車の運転も危なくなってきた、最近二人とも体に不安を抱えているから、娘と一緒の方が安心なものの、街に住むのは大きな環境の変化、家は狭くなるし娘家族にも遠慮する。自分達の家もどうするのか……と考えて困っている、とのこと。

決断には確かに踏ん切りが要る、と辛抱強く待っていたAさんですが、困った困った、と、毎回同じ内容を同じトーンで話すBさんに困惑している、という話でした。

Aさんは様子を見ながら何度も確認を繰り返しているそうですが、「私はいつも気を揉んでいるが、夫がのらりくらりで決めようとしない」の一点張りで。

「困っている」とは言うものの、どこか危機感が感じられず、時間が経つばかりでAさんはモヤモヤ。しかし家を頼んできた手前強くも言えず、途方に暮れているとのことでした。

困ったと言っているが、実は自分の問題だという意識はない

この話を聞くうちに、これ考えたらよくあることだな、と感じました。「困った」と口にしているものの、本当のところは困っていない。なぜなら、“決めるのは自分じゃないと思っているから”だと思います。

Bさんの場合は、これは旦那さんが決断する問題で、自分が決めることではない、とどこかで思っている。

だから、“困っている”体は装っているものの、当事者意識がないので、解消しなければ!という焦りもなく、特別何か行動を起こすこともない。

深刻なトーンで伝える「困っている」という言葉と現状のちぐはぐ感は、こうして生まれるんだなと感じました。

Bさんの心理状態について考えているうちに、そう言えば自分も、高校受験の時同じ状況だったなと思い至りました。

誰かが決めてくれれば、言い訳ができる

受験先を決めるリミット間際になり、反抗期も相まって、文句タラタラで親が勧める高校に決めたのですが、あれは自分で決めるのが恐かったんだと今は分かります。

その高校に決めるまで、私はしょっちゅう溜息をつき、困った困ったと思っていました。でも、内心は決められないと感じていた。

親の勧めで決めた高校は、一番近く近所の皆が通う高校だったため安心感はありましたが、もう一校、行けたらいいなと思っていた高校がありました。

ただ、私の当時の成績では、受かるかどうか微妙なレベル。落ちるリスクや、合格できた場合のその後の不安を考えると、ますます決められませんでした。

そこに親が「近所の高校でいいじゃないの」と言った。何よ、どうせ私では、もう一校は受からないと思ってるんでしょ、とプンスカしつつも、受け取りやすい選択肢を示してくれたなと、心の奥では感じていたでしょう。

自分が決めたことではない、という言い訳が立つので、進学後に、もしその学校が気に入らなかったら親のせいにできる。

実際私はそうしていたので、ズルい選択をしたと今では分かります。

決めないという習慣を続けると、決められなくなる

習慣を変えると人生が変わると言いますが、実際100以上の習慣を変えてきて、心からそう実感しています。

習慣というのは、“何かをすること”だけではなく、“何かをしないこと”も含まれるんだなぁ、とこの件からつくづく思いました。

決めない、誰かの判断に委ねる、ばかりを繰り返していると、大事な時に決断ができなくなる。

小さなことですが、例えば一緒に旅行に行く友人が、観光先から出発時間、起床時間まで、こちらが決めるように仕向けてきたとしたら、非常に重く感じ、旅行が楽しめなくなると思います。

マンションコンシェルジュをしていた時も、目的地への到着希望時間を告げられ、タクシーのお迎え時間をこちらに委ねてくる入居者の方がいらして、困惑したことがありました。

育児非協力に関するツイートの中に、“情報を調べて決めることの一方的負担”についての不満があったのですが、とても納得するものがありました。

情報を集めたり、交渉したりというプロセスも大変なんですが、“後々の結果を全部背負う”ことになるので、最終的な決断をする人には、かなりの精神的負担がかかるんですよね。

無意識に頼っていると、人に常時決断を委ねていることに気づけなくなり、知らないうちに面倒な人になってしまうなぁ、と恐くなります。

AさんとBさんのトラブルを他山の石として、残りの人生、結果を受け容れる勇気を持って、決める習慣を継続しよう、と改めて思いました。

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