女の子だらけのポスター問題から読み解く広告の難しさ

広告業界を目指す人に、宣伝会議を知らない人はいないと思う。

ウィキペディアによると「株式会社宣伝会議(せんでんかいぎ)は、宣伝・広告・環境に関する雑誌、新聞、書籍を出版する出版社である。日本で初めて広告専門誌を創刊した」らしい。

コピーライターになりたいとググれば宣伝会議賞やコピーライター養成講座が検索上位に出てくるし、amazonでビジネスライティング一位の「言葉ダイエット」や、クリエイターのバイブルである「ブレーン」等の雑誌も宣伝会議から出版されている。

そんな宣伝会議のクリエイター養成講座ポスターが批判されていた。

私はこのツイートを見た際に、「あぁ、たしかにな」と思った。

広告に関わるということは、本当に多くの人に影響を与えることだ。時には無意識的に。そのことについては以前noteに書いたのでそちらを参照していただいて、

この宣伝会議のポスターについて何が問題なのか、立ち止まって考えてみた。批判を受けた理由、そして(他の炎上を受け広告を撤回した企業の事例と感覚的に比べて)炎上ではなく賛否両論という結果にとどまった理由はなんなのか。

結論から言うと、考えれば考えるほどわからなくなった。ただ一つ言えるのは、「別にいいじゃん、何にでも文句つけるのやめなよ」と流していいものではないということ。批判の理由、そしてその批判に否定的な意見が出る背景には、これからの時代を作るための大切なヒントが隠れていると思う。

なのでこのnoteは、このポスターが良いか悪いかという結論を出すのではなく、どうして意見が割れているのか、絡まった議論を紐とくことを目的に読み進めていただきたい。

そもそもどんな意見がある?

ざっくり関連ツイートを漁ったところ、現状このポスターに対しての反応はこんな感じらしい。

<批判的>
・コピーと写真の関連性がない
・長年男性を一切起用しないのはおかしい
・言葉の力とうたっているのに美少女の写真に頼りすぎている(+表象化
<批判に否定的>
・デザインとコピーがずれているという主張ならわかるが、女性だけ起用しているという主張ならキャンペーンガールなど他にも例はある
・美人とコピーはそんなに対立するものではない
・広告で美人が効果的というのは立証されているようなものなので、消費者もある種一端を担っている
・活躍が期待されている若手を起用しており、養成講座のコンセプトとあっている

まずは、広告に対して否定的な意見から。上では三つの理由を挙げたが、わたしなりにまとめると「美少女である必要のなさ」が違和感を生み、「美少女起用の裏にある社会的構造や意図」が批判につながっているのではないかと思う。

前提として、わたしは「他にも同じようなものがある」という趣旨の議論は使わない。正しくないものが存在するのを仕方ないと判断する理由にはなるが、そのものが正しいという理由にはならないからだ。人種差別や奴隷がたくさん存在していたからといって、それらをやめない理由にはならない。

批判を紐解く①:目的と手段のずれ

この広告は、街角の女性を盗撮したわけでも、モデルを不必要に露出させているわけでもない。その点において、広告として不適切な表現はなかったかもしれない。

もしあのポスターが、化粧品の広告だったら、美容院の広告だったら、批判は受けなかっただろう。しかし、そこが今回の件において問題点でもある。

一言で言うと、「編集者・コピーライター養成講座」という商材と、若い女性モデルの顔のドアップという画像が、マッチしていないのだ。コピーでも、それらの関係性について説明していない。

画像1

この件についてアメリカの大学でコミュニケーション学の教授と話したのだが、日本語が読めないアメリカ人の教授に「資生堂とかのポスターかと思った」と言われた。

もちろん、広告業界で活躍する人材を育成する宣伝会議のポスターだ、コピーはどれもワクワクするものだし、写真にもこだわっているのだろう。

コピーライター養成講座そのものではないが、同じ宣伝会議の宣伝会議賞のポスター撮影の様子について書かれた記事からも、そのことは伝わる。

彼女らがモデルとして成長するきっかけになるかもしれないというのはもちろんそうで、女性モデル自体はこの件においての問題点ではないと思う。彼女らは自分でモデルになることを選んでいる。

一方で、なぜ女性モデル「だけ」なのかという疑問は残る。広告業界への女性の進出を応援するという趣旨で女性の参加を促したいという意図ならわかるが、女性に関するキャッチコピーは使われていないし、真剣に机に向かう女性の写真でもない。

なぜ〇〇をしなかったのかという批判は、当て付けに近く、永遠に繰り返せてしまうから生産性がないと思う人もいるかもしれない。

しかし、やはり商品自体が特定のジェンダーに向けたものでないのならば、自然なのは男女が均等にモデルに起用される状態ではないのだろうか?

選択に特定の意図がなく(もしあったのならば、広告業界には男性が多く、男性の目を引くために美少女を使ったなどしか私は思いつかなかった)、意識せず自然と女性モデルに、もしくは男性モデルに、それも9割ではなく10割偏るということは、何らかの社会情勢や歪みが反映されていると考えてもおかしくはない。

そして世界は、意図的にその歪みをなくす方向に進んでいる。

つまり、女性モデルのみを使用している広告の中で宣伝会議が注目されたのは、化粧品や美容院など商材が女性に向けたものではなく、商材と女性モデルの関係が見えない広告の一つだったからだと思うのだ。

批判を紐解く②:なぜ理由なく女性だけを使う広告がダメなのか

では女性モデルに偏る広告は、どうして問題なのか。その社会的背景としては「女性の客体化(Objectification)」が挙げられる。冒頭のツイートにあった「女性の表象化」は、客体化と近い意味だと私は解釈した(違ったらごめんなさい)。

現代ビジネスの「炎上繰り返すポスター、CM…「性的な女性表象」の何が問題なのか」という記事では、フェミニスト哲学者を引用して客体化をこう説明する。

ヌスバウムによれば「客体化」は7つの相互に異なる要素に区別できます。簡単に言えば次のとおりです。「道具性」:対象を自分の目的達成のための道具とすること。「自律性の否定」:自律性や自己決定能力を欠いたものとして対象を扱うこと。「不活性」:行為者性や活動性を欠いたものとして対象を扱うこと。「交換可能性」:他の対象と交換可能なものとして対象を扱うこと。「毀損可能性」:壊してもよいものとして対象を扱うこと。「所有性」:買ったり売ったりできるような所有物として対象を扱うこと。「主観性の否定」:経験や感情を考慮しなくてよいものとして対象を扱うこと。

とってもシンプルにまとめると、私たちがリンゴを一つひとつ区別せず食べているように(美味しいリンゴとまずいリンゴだとしても、個性というより特徴でカテゴライズしている)、女性を男性と同じ個性を持った人として扱わず「女性」「美少女」「性的対象」として一緒くたに扱う態度のことだと私は思っている。

「どんなに渾身のツイートをしても、可愛い子犬と女子高生の写真の方がバズる」という冗談もある。美しく若い女性を使っておけば、男性の目を引ける。そんな風に、若い女性を人の意識を引き付けるための道具としてみる意識が、広告においての客体化の問題点だ。

最近、不用意に大きい胸や体のラインを強調したイラストを使用したポスターが炎上し、撤回される件をよくみる。それについては、上記の現代ビジネスの記事のタイトルにあり解説されているように性的客体化と呼ばれ、今みんなが何が正しいのか、感覚を合わせている段階のように感じる。

一つひとつの事例がそれに当てはまるかは別として、性的客体化は減っていく、というか減っていかなければならないと思う。広告は、良くも悪くも企業のお金を使って多くの人に作品を届ける行為だ。そこに女性を「性欲の対象にして良い、自律性に欠けた所有物」(極端に言えば)として映すことで女性が被る被害は、想像に難くない。

物理的な力では、女性は男性に負ける。その点だけでも痴漢や性犯罪の被害に合いやすくなるのに、さらに弱くて好きにしていいものというイメージを強めるべきではない。

また、性的客体化だけでなく、客体化自体も実際に疑問視され始めている。「広告における女性の客体化」というタイトルの記事(英語)では、以下のようにその現象を説明している。

テレビのコマーシャルやポスターには、足が長く毛のない、目の輝いたウエストの細い女性が繰り返し映される。スーパーモデルに加工を重ねて作り出された、そんな女性はどこにも存在しないのに。...男性はそんなバービー人形のような女性を好むように、女性はその状態が女としての目標だと繰り返しプログラムされる。...広告の主な目標は、企業の商品やサービスが見合うニーズを作り出すことだ。例えば男性は、美しい女性が飲んでいる広告をみて、特定のブランドのビールを飲むかもしれない。一方で女性は、そのモデルに近づくため、特定の服やダイエット食品を買うのだ。

「儚さ、清潔さ、幼さ」を連想させる似た特徴を持った女性モデルを使って目を引き、それと関係のない商品を売ること繰り返すと、それは男女に関わらず、女(男)はこうあるべきという偏見を強めることになる。

なぜ宣伝会議のポスター批判は「賛否両論」だったのか

とはいえ、性的でない女性の客体化はまだ表立って批判の対象になっていない気がする。冒頭のツイートも拡散はされたものの、クリエイターを含めても全体的な意見は賛否両論だったように感じる。Twitterだから声の大きい人が目立っている可能性もあるけれど。

フェミニストは女性アレルギーになるのか
質が低いだけで批判される大変な時代

という意見もあって、そんなことを言うのかと初めは悲しくなったものの、いろいろ考えていたら一理あるなと思った。

宣伝会議のポスターは、不用意に女性を性的に表現するものではなかった。特にジェンダーの不平等に関して問題ない人がみたら、見慣れたポスターに見える。強いて言えば女性に対する偏見(ピュアであるべき、個性的の前に美しくあるべき)を強めているという問題はあれど、それは時代を写す鏡である広告が避けて通りにくい部分でもある。(仕方ないとは言わないけれど、しょうがない部分もあるし、私もコピーを書いていて既存の偏ったイメージを使ってしまう時がある。)

塾の帰りに三回連続で痴漢にあう、少し度数の高いアルコールを飲むと注目の的にされ冗談を言われる、などの経験が実際にある私だから、少し性的なステレオタイプに触っているものを見ると、そんな不条理な社会に対する憤りを思い出してしまうのかもしれない。

不平等はずっと存在している。女性の投票権が認められ、意見を聞いてもらえるようになり、少しずついい方向に進んでいるものの、慣習に従えば勝手に女性を差別できるようにこの社会はできている。

力を持っている人が自分の当たり前で物事を決めたら、力ない人の意見とずれるのは当たり前と言えば当たり前だ。

でも、これからはそのままでいると取り残される変化の時代だとも言われる。年功序列・終身雇用を期待し会社のために働くサラリーマンが生き残れないという本が売れる時代なら、慣習に従って差別的な表現をしてしまうクリエイターが生き残れないとしてもおかしくはない。

女性だからといって、フェミニズムに詳しくなるわけではない。男性に差別的な行動を取る女性だっている。どんなカテゴリーにいても、なんなら普段のコミュニケーションだって、根本にあるのは人は皆それぞれ違う価値観と経験を持っていて、けれど等しく尊重されるべきだということそして、他人のそれを理解するには、適切な知識、対話をする意思、絶え間ない努力が必要だということ。

これは広告に限ったことでも、新しいことでもない。みんなが幸せに、仲良く暮らすために、相手の立場に立って考えることが今まで以上に求められるというだけだ。広告を作る側は意識を変え、また見る側も常識を疑う。それがこれからの広告を変えていくのかもしれない。

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