ミコトの物語〜対話の旅へ〜(大澤真美)/ことばの焚き火に掲載されなかったシリーズ①
まえがき
対話をすると確実に変化が生み出される。それは、体感してみればわかること。でも、「ことば」で伝えることを諦めたくないから、その変化を、一つの物語として、書き出してみる。対話は旅のようなもの。だから、きっと物語になりやすい。
これは、ミコトの物語。旅の経験が一人一人違うように、あなたの経験はきっと違う。でも、対話と同じで、その違いが自分の輪郭を見せてくれることがある。これから読むストーリーの中で、ミコトとの共通点と違いを感じながら、一緒に旅をして欲しいなと思います。
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はじまり
ミコトは、これまで自分はある程度人並みに生きてきたと思う。人並みとは何なのか、うまく説明できないけれど、まあ、何となく社会とも折り合って生きてきた感じ。一応、学校も出たし、食べられるだけのお金を稼ぐ仕事もしているし、家族もいる。でも、「何か足りない」そんな思いが、ふとした瞬間に襲ってくる。仕事して、家族とご飯を食べて、笑って過ごせて、何に不足があるはずもないのに、何かぽっかり空虚なものが押し寄せる。
だから、仕事を変えてみたり、本を読んでみたり、人に相談してみたり、何かの講座に出てみたり、色々やってみた。でも、その時は「そうだ!」と思ったりするけれど、決定的に何かが違う、そんな感覚を拭うことが未だにできない。
そんなとき、「対話」という言葉を耳にする回数が増えてきた。学校の学習指導要領に「対話」が出てくるらしいし、医療でも「オープンダイアローグ」というのがあるらしい。会社でも何やら「対話が大切」と言っている。「対話」って何だろう?会話と何が違うのか。
そういえば、大学時代の友人が、対話会というのをやっていて、何度か誘ってくれたことがあったっけ。集まって、輪になって話すとか。なんか、宗教っぽいなという感じがして、毎回何かの理由をつけて断っていたけど、確か今日の夜だったな。急に予定も空いたし、会社でも対話が大切と言っているんだから、大丈夫かな。まあ、行ってみるか。そんな気持ちで、ミコトは、対話会に参加してみることになった。
対話の場で
[チェックイン]
対話会の会場に入ると、大学時代の友人が、大喜びで迎えてくれた。何だか、昔より生き生きしている感じがする。会場を見回すと、とても親しそうに打ち解けて話す人もいれば、居心地悪そうに、様子を伺っている人もいる。誰も、知り合いがいないのかな?少なくとも自分は、友人がいてよかったとミコトは思った。
時間になって、輪になって席に着くと、進行役らしき人が「チェックインで、呼ばれたい名前と、今の気持ちについて一人ずつ、声を出してください。」と言ってきた。チェックインというのは、ホテルのチェックインのように、その場に入るためにするものらしい。それ以外にも色々言われたけど、わかるような、わからないような。「呼ばれたい名前」っていうのも、なんか変な感じがする。初めて会う人同士で、あだ名で呼び合うってこと?
そうこうするうちに、ミコトの番が回ってきた。初めての場であると言うことと、何となくいつもと違って起こることに予想がつかない不安が相まって体が硬い。何となく手に汗もかいている。
「呼ばれたい名前ってよくわからないけど。えーと、学生時代に『ミコ』と呼ばれていたので、『ミコ』と呼んでください。今の気持ちは、、、キンチョウしています。」
自分の声が震えているのがわかる。喉が詰まっている感じ。でも、声を出して、思わずはあっとため息をつくと、少しだけ、体が緩んだ気がする。
[違和感]
チェックインが終わって、特にテーマを定めることなく、対話が始まっていった。
ミコトは、いろんな勉強会に出たことがあるから、初めての場でも、割と声を出すことに慣れている。何となく、その場がどんな場で、どんな態度でいれば空気を掴むことができるからだ。でも、どうもここは勝手が違う。目をつぶっている人や、天井を見上げている人がいたり、沈黙が続くことがある。それにちょっとモゾモゾすると言うか、身の置き所がない感じ、ちょっと違和感を感じていた。
そう言えば、進行する人(ホールドって言ったっけ)が、焚き火に薪をくべるように話す感じって言ったっけ。焚き火をするときの体の感覚を思い出してって。ミコトは、何となく、学生時代のキャンプのことを思い出した。焚き火を囲んで、夜更けまで友達と話したなあ。体が温まって、緩んで、わあっと盛り上がることもあれば、思わず普段は出さない心のうちを話したこともあった気がする。そんな感じか。
深呼吸をして、焚き火を思い浮かべると、何となく、体の硬さが取れる。すると、その場の空気が何となく温かい気がして、みんなの声や色んな音が自然に耳に届くようになってきた。体が硬いと、耳も聞こえなくなるものだ。
[心が揺さぶられる]
緊張は取れてきたけれど、まだ自分の声を出すのは勇気がいる。ただ。ここは、どんな自分でもいてもいい場所というのは、何となくわかる。ジャッジされたり、アドバイスされたりすることもなさそうだ。まあ、適当な相槌や反応がないっていうこともあって、最初は変な気もしたけれど。ある意味それも、気が楽なのかもしれない。
焚き火を囲んでいるつもりで、聞くともなく、ぼやっとみんなの声を聞いていると、それでも耳に飛び込んで来る言葉がある。それに、モヤモヤしたり、ザワザワしたり、うんうんと共感したり。声には出せないのだけど、自分の中で色々起こる。自分ってこんなことに反応するんだと驚いたり。
そんなとき、ある人が発した言葉を聞いた瞬間、わけもなく湧き上がるものがあって、気がつくと涙が滲んでいた。一体、急に何だろう。何で涙が出るんだろう。でも、何となくそこに大切なものがあのはわかる。言葉にすることは難しいけれど。
[とりあえず出す]
対話に慣れているらしい人たちが、「とりあえず出す」ということを言っていた。普段は、役割や立場を考えて口に出さない言葉も、自分で自分を検閲しないで、「とりあえず出す」ということらしい。
「対話が一体何なのか掴みたい」そんな思いもあったから、よくわからないながらも、ミコトは「とりあえず出す」にチャレンジしてみた。「呼ばれたい名前」や沈黙に違和感があったこと、訳もなく涙が出たこと。普段の勉強会だと、空気を読めない奴と思われたくなくて出せない言葉も、思い切って出してみた。
すると、それに呼応して、斜め向かいのずっと黙っていた人が、堰をきったように急に話出した。会場に入ってきたときに見たあの人だ。初めて来た様子で、一人で緊張していていたらしい人だ。「いやあ、ほっとしました。自分だけが場違いなんじゃないかと思って、不安だったけど、同じ違和感を持った人がいると知って、安心しました。ありがとう。」声が出ると共に、その人の周りの空気が、ぐっと緩んだ気がする。
それは、ミコトにとって、思い切って出した自分の内側からの言葉が、誰かの何かにつながって行くことを、初めて体験した瞬間だった。自分のチャレンジとして出したことだけど、結果的に誰かの救いになることがあるんだ。
[チェックアウト]
チェックインもあれば、チェックアウトもあるらしい。場を終えていくために出し切れなかったことも含めて、場に出すということ。
初めて会った人たちだけど、一人一人のチェックアウトの言葉が、ミコトの体に響いて行く。中には、一言も口をきかない人の声を初めて聞くこともあった。どうもこの会では、進行役の人が、誰かに意図的に話を振ることはないようなので、自分から話さない場合、ずっと黙っているということもある。でも、チェックアウトの声を聞くと、そういう人が、実は、すごく深くいろんなことを感じていたことを知って驚いたりもした。
「まとまっていないけれど、、、」そう言いながら、ミコトもチェックアウトの言葉を置く。ここでは、「勉強になりました」とか、何か良いことを言わなくてもいいという感覚があった。何だかよくわからないけれど、そのとき思ったことをそのまま口にして、対話の場を終えていった。
それから
[余韻]
対話会の会場を後にすると、何だかすごく不思議な気分、体の感覚になった。初めて会った人同士なのに、だいぶ深い話をしたような気がする。あの安心感は何だろう。そういえば、大学時代の友人も、何だかちょっとその頃とは違う人のようで、これまで見えなかった面を見せてくれたような気がする。
その不思議な感覚には、妙な心地よさがあって、日が経っても、何となくその余韻が残り、毎日の生活の中で、ふと対話の中で話された言葉を思い出すことがあった。そして、気がつくと、会社や家庭でのいつもの言葉のやり取りで、自分の言葉を話していることが少ないことも感じ始める。
[変化〜自分とつながる〜]
ミコトはあれから、2週間に1回の対話会に参加するようになった。うまく言葉にはできないけれど、なんか楽しいんだ。心地いいことばかりではなくて、ときに、心がザワザワして涙が出そうになったり、痛みが走ったりすることもあるけれど、その感情の奥に、自分の大切なものがあることがわかるようになってきた。
そうすると、自分の輪郭が、今までよりはっきり見えるようになってくる。自分は何が好きで、何が嫌いなのか。何に共感して、何に反応するのか。今までは、反射的に応答して、批判したり、対立してしまっていたけれど、ジャッジせず、一旦味わってみると、全てが自分を知るきっかけになってくれる。自分と出会い直し、つながり直す感じ。自分とつながっていること、それは、何だか安心な感覚で、最初は出なかった自分の言葉が、すっと出るようになってきた。
[変化〜人とつながる〜]
「みんな違って、みんないい」そんな言葉があるけれど、対話を重ねる中で、その言葉が言葉だけではなく、体でわかる感じをミコトは持つようになった。
対話というと、安心安全で、共感にあふれた温かい場を想像したこともあったけど、どうもそんなお花畑のようなものではなく、もっとぐっと深いところまで潜るものという感じがする。
ミコトが自分とつながることで、安心を得られるようになったのは、誰かが自分に似た思いを表現してくれるおかげもあったけど、むしろ、自分と違う感覚の人がいることで、自分が大切にしていることに気づくことができたからのような気がする。そう、違いがあるおかげで、自分がわかり、自分でいられる感じ。
「あなたがあなたでいてくれるから、自分が自分でいられる。」そんな感覚を持ったのは、もしかしたら、生まれて初めてかもしれなかった。感覚の違う人は、無意識に避けて生きてきたような気がする。
そうなってくると、違いにありがとうと言いたくなるし、人が怖くなくなってくる。それの上、違いはあっても、違いの奥にある願いは、案外一緒のような感覚もある。それぞれが、それぞれでありながらつながっている感じ。本当にそれは、安心で、心地がいい。対話会に来ている人は、年齢も背景も性別も違って、この場でなければ会わないような人だし、実際何をやっている人なのかよくわからなかったりするけれど、不思議と人としてつながっている感じがする。
[変化〜社会とつながる〜]
対話会でそんな経験を重ねて行くと、ミコトは逆に日常生活の場面で、違和感を感じるようになってきた。内側の言葉に気づいたものの、仕事の場や家庭では、今までの関係性とそれに沿った言葉遣いがあるから、いざ、相手を目の前にすると、自分の言葉が出てこない。出そうとすると体が強張る。体は正直なものだ。
家族、仕事仲間、友人との間に、薄っすら膜を感じるようになってきて、何ともそれが居心地の悪さを感じさせる。対話会で、よく知らない人の前では自分を出せるのに、大切な人に出せないこと、そのままの自分でつながれないことに苦しさ覚え始めた。
そんな中、ある時、仕事の会議で、いつもなら流れを止めないように言葉を飲み込むところ、うっかり「とりあえず出」してしまった。体が我慢できなかったようで、本当にポロっと。自分でもびっくりして、一瞬心臓が止まりそうになった。なんだか会議はシーンとして、「やってしまった」と思ったけど、後から同僚が「あの言葉を出してくれて本当にありがたかった。ずっと苦しかったんだ。」とわざわざ声をかけてくれた。その人は、割と寡黙な人で、何を考えているかよくわからなかったけど、この一件があってから、人としての親しみを感じるようになった。今では一緒に仕事をすることがすごく楽だ。
一番大切なはずの家族とは、まだ対話できていないけれど、それでも、以前と違って、反射的にぶつからず、一旦態度を保留することができるようになってきた。対話を実践する中で、自分が自分であるように、相手も相手でいることを大切にしようという心構えができてきたからかもしれない。まあ、いつもそうできるわけではないけれど。家族とも、いつかは、お互いに内側の言葉を出し合えるようになることを願っている。でも、それぞれのタイミングを待ってみようとミコトは思う。必要な時に、必要なことが起こると信じて。なんだかそこに、希望があるんだ。
【対話することは自分を生きること】
ふとした思いつきで、ミコトが対話会に参加するようになって、今日でまる一年だ。自分の誕生日の翌日だったからよく覚えている。あの時、急に予定がキャンセルになって、時間を持て余して行ってみたのだった。たった一年だけれど、あの頃の自分とは、まったく違うところに立っているなあ、と思う。
何より、あの頃より、ずっと楽だし、生き生きして来た。心も、体も。それまでは、自分の声に蓋をしていたんだなあ、とつくづく思う。何かが決定的に変わった感じがする。
自分の言葉を出せるということは、自分であることを許すこと、自分を生きることに直結するんだなあ、と思う。いつもそうできるわけではないけれど、自分の内側とずれていたらわかるようになった。
そして、いつの間にか、信頼し、安心して関われる仲間が増えた。色々あるけれど、この世界は大丈夫だし、面白いし、いいもんだ、ミコトは今、そんな気持ちになっている。
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