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うつ状態のいくつかの症状

・気分が落ち込む、特に朝に落ち込む

・ストレスからくる頭痛、胃痛等の体の不調

・悲しい気持ちになる

・憂うつだ

・なんの希望もない

・孤独感

・漠然とした不安や恐怖

・自殺願望、消えてしまいたい

・外出が億劫

・集中力が低下し、仕事の効率が落ちた

・些細な決断ができない

・注意力が散漫になって、人の言うことがすぐに理解できない

・今まで好きだった事や趣味をやる気になれない

・他人と関わりたくない

・身だしなみやおしゃれに関心がわかなくなった等

私がうつ状態に陥った訳

小学生のころからいじめが始まり、一度日記に書いて担任に伝えたけどなにもしてもらえませんでした。そして、私の苦しみをわかってくれる人は誰もいないし、傷付くだけだから誰にも相談できない。

と思い込んだのが事の発端です。

麻痺してしまった私は殻に閉じこもるようになり、自分の意見を言わなくなりました。

看護師になってからも人に相談するのが苦手でした。そんな私が心を許していろんな相談をしていた同僚の裏切りで深く傷つき、人間不信になり引きこもったのがきっかけです。

24歳で重度のうつ病の診断を受けました

少しの医療知識があった私はもしかしたら心の病かもしれない。

と思い一人で鹿児島大学付属病院を受診しました。心理検査を行い、重度のうつ病の診断を受け、即入院するよう言われました。

生粋の九州男児の父。理解してくれないだろうな。なんて言おう。そんなことを考えながらゆうはん食べ終え両親にその日に先生に言われたことを伝えました。

父から返ってきた言葉は「お前は頭がおかしいんだから精神科に行け。」でした。心配の言葉なんて期待してなかったけどショックでたまりませんでした。

半年間の1度目の入院

個人の病院に入院することになりました。

入院の一つの目的として、心身療法である10日間の絶食療法をすることがありました。

絶食療法に向けて徐々に摂取カロリーを800kcalまで落とし、運動もしてました。

期間中は個室で、他の患者さんとの会話も禁止されていました。そして何よりもつらかったのが、空腹ではなく、過去を振り返る日記でした。不思議と空腹感は全くありませんでした。

毎日行われる主治医とのカウンセリング。後半は泣きながらのカウンセリングでした。印象に残ってる先生の言葉があります。

「良い思い出は今から沢山作ればいい」という言葉です。

絶食療法を終え、両親にその時の気持ちを伝える機会を設けました。

先ずは母から。母には「忙しさにかまけて、構ってあげれなくてごめんね。」と言われました。

一週間ほど開けて父。父には「なんでお父さんがここに来ないといけないの?治療は先生に任せてるのに」とか、「なんでお前だけそうなったんだ」と言われました。

父に主治医は私の前で「あなたがお子さんを病気にしたんですよ。子供はチョコレートが欲しいって言ってるのに、ボールペンを挙げても愛してることにはなりません。」と言いました。

それから「私が心の病になったのは両親のせいだ。」と両親を憎むようになりました。

看護師に復帰してから辞めるまで

退院してから病気であることを公表して看護師に復帰しました。

何処に行ってもうまくいかず長続きしませんでした。

26歳で大阪に行くも、借金地獄に陥り4年間で帰郷しました。

愛情に飢えていた私は、訪問販売の方の優しい言葉等に騙され高額商品を買ってしまったり、お金をだまし取られたりで4年間で1千万以上の借金を背負いました。

自宅療養に入って

鹿児島に帰郷して、父が見つけてくれた病院に通院の日々が始まりました。その時に、自立支援と障がい者年金の事を知り手続きをしました。

帰郷してから入退院を繰り返し、精神療法の一つでもある内観療法を2回やりました。

個室にはなりませんでしたが、私語は禁止で、毎日2時間おきにカウンセラーとのカウンセリングがありました。

内観療法は、カウンセラーが指示した時期に(1)してもらったこと(2)して返したこと(3)迷惑をかけたこと。だったと思います。

してもらったことがなかなか出てこなくて苦戦した記憶があります。

回復するどころか激太りし、落ち着きなく動き回るようになり、父から大学病院で診てもらった先生のところに母と一緒に行くように言われ、開業した先生を受診。

昔から体格良かったけど、激太りした私を見て、先生もびっくりしてました。久留米にいい病院があるからそこに入院するように言われ、紹介状を書いてもらい、入院の手続きをしました。

久留米での生活の始まり

慣れない土地で、知らない人ばかりのところへの入院は不安しかありませんでした。

精神福祉士の方に、障がい者手帳を作るといろんなサービスが受けれることを聞き手続きしてもらいました。

こころを開くのに時間のかかる私はスタッフにも声かけれませんでした。自分からスタッフに声かけている患者さんを隅っこで羨ましそうに見てました。今の自分からは想像つきません。

そんな私に優しく声掛けしてくれた担当の看護師さん。今でも大好きな看護師さんです。

3か月で実家に帰る予定でしたが、久留米のほうが居心地が良くなり親に相談したところ難なくOKしてくれました。

当時の福祉ホームに入ることになりました。そこで生活保護の申請をして、生活保護を受給しながらの生活が始まりました。

久留米に来て3年ほど経った頃でしょうか。何がきっかけなのかわかりませんが、先生に「親のせいとかないんじゃないかな?」って言いました。

それからフッと心が軽くなったのを覚えています。父は不器用な人間だし愛情表現が下手なだけだって思えるようになりました。

それからどのくらい経った頃でしょう。私から先生に、「実家と久留米と3週間くらいずつで過ごしてみたい。」と提案しました。

実家と久留米での生活の始まり

実家と久留米を行き来する生活が始まりました。

数か月たったころ、兄嫁が卵巣のうしゅで入院することになりました。

その時2歳半くらいの甥と、5か月の姪を預かることになりました。その時姪は母乳だけで粉ミルクは飲んでませんでした。

母乳から粉ミルクへの移行をしなければなりませんでしたが、哺乳瓶を嫌がりまったく飲んでくれない日々が数日続きました。

いよいよ兄嫁が入院し、手術の日。

両親は鹿児島市内の病院に行き、兄は兄嫁の手術の付き添いで不在となり、私が一人で姪を見ることになりました。

子育てなんてしたことないし不安でいっぱい。姪が寝たのでベビーカーに乗せ、ミルクとお湯もスタンバって庭のベンチに座り姪が起きる瞬間を待ってました。

姪が起きた瞬間に哺乳瓶をくわえさせたらグビグビとミルクを飲んでくれました。速攻で兄に電話して報告。凄く嬉しかったし安心しました。

昼間は幼稚園に行っていた甥も、姪を見ると安心したように「赤ちゃん赤ちゃん」って寄ってきてました。

思い出したかのようにママをたずねて泣き出してた甥。

兄嫁が落ち着いて病院にみんなでお見舞いに行きました。

私が甥を抱っこしてましたが、ママを見て子供ながらに何かを感じたのかママに駄々こねることなく帰りました。

その日から寝ぼけてる時以外はママをたずねることはなくなりました。

父も2歳くらいの時に母親を亡くしています。後妻さんはいましたが愛情を受けずに育ってます。

姪のミルク担当を任せられた私。姪はお腹がすくと私を見て泣くようになりました。凄く愛おしく感じるようになりました。

夜は、母と私と子供たち4人で寝たり、甥は兄がみたりしてました。

母は、姪が目を覚まして泣きそうになるとお腹をポンポンと優しくなでていてました。

その姿を目の当たりにして、私もこうして育てられたんだなぁ。て心に響きました。

兄嫁が退院する数日前。

母は自営をしている兄の家にお留守番に出かけて私が姪を見ながら晩御飯を作る機会がありました。

その日は姪の機嫌が悪く何をしても泣き止まず私もイライラしてました。子育て経験のない私はどうしていいかわからず母に帰ってきてもらい、次の日は母と交代することにしました。

翌日、母から「晩御飯が作れないから帰ってきて」と電話がありました。

帰ると姪がギャン泣きして手が付けられない状態になってました。

私は小4まで祖父母と一緒に住んでましたが、祖父はリウマチ、祖母は子供嫌い。姉と兄もいるし、預ける場所のなかった両親は大変だっただろうなぁ。って思えるようになりました。

唯一の救いは自営してたから周りの人が可愛がってくれたことだっただろうなぁ。

10日間だけでこんだけ神経使うのに、子供を育てげるのは大変だと思います。

今はもう甥は小学4年生。姪は小学2年生になりおてんば娘です。

10日間ママ体験をして親への感謝の気持ちが出てきました。

就労に興味を示すようになって

随分と気持ちも落ち着いてきて、また働きたいな。って思えるようになってきました。

最初は印刷業で、イラストレーターも学べる就労継続支援B型事業所に登録しました。そこにまごころ製品として、とある作業所の天然石ブレスレットと小物が置かれるようにりました。

印刷業の責任者の方に「私ここに行きたい。」って言ったら見学に連れて行ってくれました。

そこは、その当時はオープンスペースでした。

理事長さんが精神疾患の方で、居場所を作りたいとの思いから始まった作業所でした。「オープンスペース不思議の国のアリス」その名の通り不思議なところでした。

即契約して、最初は印刷業と併用して行ってました。

アリスの居心地がよくて印刷業を辞めてアリスだけにしました。病院も入院設備のない理事長さんと同じ個人病院に転院しました。

理事長さんとも仲良くなり、頼りにされ、一緒にご飯を食べに行く機会も増えました。

利用者さんも増え、手狭になってきて、隣の空き店舗まで増築し、B型作業所に移行しました。

移行するにあたり、B型を経験してた私はスタッフ側の相談を受けるようになりました。

時同じくして、近所の虐待のような親の罵声と子供の泣き声に悩まされてました。

主治医の相談すると、「その子とお友達になっちゃったらどうですか?」と度肝を抜かれるアドバイスをもらいました。もちろん友達にはなってません。

いろいろ主治医に相談していくと主治医から、「あなたは色んなつらい経験をしてきているけどそれは誰かの役に立つための試練です。あなたは誰かの役に立つために生まれてきたのです。そして今、清子さん(アリスの理事長さん)のもとで修業をしているのいるのです。」と言われました。

私は人のお世話をするのが大好きです。悪く言えばお節介焼きです。

そのころからまた「人の心の寄り添える人になりたい。」と思うようになりました。

アリスでも半スタッフ的な立ち位置になり、清子さんからメンバーさんの相談も受けるようになりました。理事長と利用者という垣根を超えいつしか依存し合うようになり、私が元の病院に入院してしまいました。

入院して距離を取って主治医や、スタッフさんと相談して整理をしていって初めて共依存になっていることにきづきました。

個人病院の先生に「良い所に気付きましたね。」と言われました。共依存していて良いことは何一つないのです。お互いきつくなり、どちらかがダウンしてしまいます。

病院も個人病院から元の病院に変えました。

A型事業所に移行して

TANOSHIKAというA型作業所に移行しました。

仕事は楽しいと思ってもらいたいという社長の思いから、TANOSHIKAにしたそうです。

見学に行ったときに社長から「○○さんは支援者になれる人ですよね。」と言われました。

何度も社長と喧嘩して他のスタッフの方になだめられました。なぜか社長には自分の感情のまま話すことができました。

当時社長はまだ20代。若さだけで突っ走ってる感じでした。

私はキツさをあまり表に出すタイプではなかったので「無理だけはしないで」が社長の口癖でした。

カウンセラーを目指すきっかけ

TANOSHIKAも利用者が増え、だんだんといけなくなり、退職しました。それからB型事業所ビートに行きだし、同系列の訪問看護も受けるようになりました。

ビートに馴染めず、人も多くなり、1年ほどで辞め、別なB型に行き始めました。

そして去年の3月うつ状態になり寝込みました。訪問看護師さんからは「入院も視野に入れましょう。」って言われたけど、入院せずに頑張りたいという私の思いを尊重してくれました。

私はなにもする気になれなかったけど、週に2回の訪問看護と週に3回のヘルパーさんに助けられました。

私もこの人たちのように誰かの支えになりたい。相談相手になりたい。と強く思ったのがカウンセラーになったきっかけです。

リカバリーセンターくるめとの出会い

4月に入り、Facebookにとある方から友達申請が来ました。3年ぶりくらいに食事に行くことにりました。その友達にも3年間の出来事、1ヶ月思い続けたことを話しました。

友達は元気になってる私を見て心から喜んでくれました。

友達にWRAP(元気回復行動プラン)を紹介されました。以前も進められてたし、通院している病院でもクラスをやってたのでWRAPの存在は知ってました。

WRAPクラスをやってるのがリカバリーセンターくるめでした。当時通所していたB型事業所の代表に見学に連れて行ってもらい、2日間体験をして契約しました。

リカバリーセンターくるめでは昼と夜の部つで月に2回のWRAPクラスがあります。その他にもいろんなプログラムがあります。

私が契約したときは生活訓練だけでしたが、去年の6月からB型事業所も始めました。

一軒家の1階で生活訓練。2階はB型事業所です。普通の一軒家だからかアットホームな感じで、みんなが家族みたいな感覚です。

以前通所していたところは月に数回しか行けてませんでしたが、今は毎日行っています。

リカバリーに行きだしてまだ1年ちょっとですが、いろんな方に「リカバリーに行くようになってさらに元気になったね。」って言われます。

B型ではリーダー的な存在です。

この前電話で初めて父に本音トークしました。普段いえない感謝の気持ちを伝えました。

人から必要とされていることを実感するたびにリカバリーできているような気がします。

最後に

私の周りの心の病になやんでいる方は、家族関係がうまくいっていない方が多い印象です。家族のせいにするにではなく、自分で自分の人生に責任を持てるようになった方は回復が早い気がします。

WRAPのキーコンセプトにも責任という項目があります。あなたの人生の創造主はあなた自身です。あなた次第で周りは変わります。人を変えることはできませんが自分が変わることはできます。

自分が変われば周りの見え方も当然変わります。

これはあくまでも私の経験であり、私の見解です。参考にしていただけると幸いです。


ここまで読んでいただいてありがとうございます。

もし過去の私のように相談相手がいらっしゃらない方私が相談相手になります。ご相談は30分3000円(1分100円)で行っております。

相談サービスの提供はココナラにて行っております。

ココナラアプリを使うと通話料無料で、アプリを使わない場合は電話料金として1分20円加算されます。

些細なことや愚痴でも構いませんのでご連絡お待ちしております。


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