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KOTO official
2019年6月5日 16:43
当時通っていた青柳保育園は新狭山ハイツの端っこのちょっとした高台にあった。なかよし広場という大きな公園の横だ。家から子供の足で徒歩4分。同じクラスの子達はほぼこの団地の子供達。毎日が楽しいはず、だった。だった、というのはつまりそういうことだ。幼少期の僕の人生において平穏な日はなかなかやってこなかったということ。どういう字を書くかは覚えていないがドウゲン先生という女性が担任だった
2019年5月20日 03:34
今となってはおぼろげにしか残っていないが・・・幼少期は寂しくて心もとなかったんだと思う。この時期はあまりいい顔をした写真がない。両親は共働きだった。その穴を埋めるために福島から祖母が来てくれていた。当時の家計のことなど知る由もないが父は会社員、母は学校の先生。十分な収入はあったはずだ。しかし母には強い使命感があったのだろう。決して仕事を辞めなかった。日曜になればみんな揃うけど