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ネットマージャンの ”麻雀らしさ” を被害妄想的に考察してみた

ネットマージャンのシステム(ソフト)が、麻雀らしく動作して、プレイヤーが麻雀感を感じるために実装すべき項目について想像してみました。

きっかけは、私が、以前は良くプレイしていた「まるじゃん(Maru-Jan)」で、私は常々あまりにも不運続きだと感じていて、各種の出来事が、実は仕様として実装されているのではないか?と被害妄想的に感じていたことでした(これを一部でオカルトと言います)。

■麻雀らしさとは…

麻雀らしさとは何だろうか?と思索にふけっておりました。自分自身で思いついたことを単純化していくと、それは麻雀が考えている通りにならない ”もどかしさ” や、喜びと悲しみの落差を体感することだと考えました。

言い換えると、麻雀の展開上の不遇さ(運の無さ)、派手な展開からの大逆転のような一喜一憂するようなドラマやストーリーではないかと考えました。麻雀らしさとは人間らしさとも置き換えられるように思います。

それは、裏を返せば、麻雀を打つ人からしてみれば、常識であったり、「あるある」な出来事であったりして、これを ”麻雀らしさ” と定義付けすることで、これをソフトに表現させることで麻雀感を演出させることができるものと解釈できます。その結果、対局を通して、作られた「あるある」を体験させられることで、ネットマージャンのプレイヤーは「麻雀だなぁ」と意識的・無意識的に実感することができるのです。

■「まるじゃん」を題材とする

いろいろなネットマージャンをプレイしていると「まるじゃん」の挙動は他のそれとは異なる特徴を持っているように感じます。「まるじゃん」の中で、私と同じ境遇であれば、以下でお示しする境遇をオカルト的にご理解いただけるのではないかな、と考えています。主に天鳳しかやっていない方には理解してもらえないかも知れません(という、私も最近は天鳳ばかりになっています)。

「まるじゃん」プレイヤーの方には、お馴染みの内容であって、必ずしも当てはまらないことや、的外れなことがあるかも知れません。私が単に麻雀力が低いことによる被害妄想的な内容を含んでおりますが、「ある!ある!」程度の寛容さで読んでいただければ、これ幸いです。なお、「まるじゃん」の詳細なご紹介は割愛させてをただきます。

■全自動卓の牌の混ざり方

「まるじゃん」の実際の実装例であり、「まるじゃん」運営のシグナルトーク社のかや社長もコラムを掲載されていることではありますが、「まるじゃん」で特記すべきは、全自動卓の牌の混ざり方に着目(牌の偏りを再現)していることです。

これは、個人的にはかなりオカルト要素ではないかと感じており、今や、全自動卓の牌の再現というものは、麻雀らしさの言い訳であって、一重に誰かを勝たせるとかいう観点ではなく、如何に効率的にドラマを展開させるかというベースになっているように思います。

■積み込み?

ネットマージャンをプレイしたことがある人なら1度は考えたことがあるでしょうが、これこそオカルトの代表です。ちなみに「牌操作だ!」と声高に言う人のことを「牌操作の民」と言う方もいます。

ただ、基本的には、誰かを勝たせるという仕様にはあまり意味がなく、天鳳であれば、”ランダム”に積まれた山を”ランダム”に提示しているだけと説明されています。

「まるじゃん」にはそのような具体的な説明はなく、展開次第でコンピューターが牌を選んでいるような感覚を覚えることがあります(まさにオカルト)。良く言われているのが、リーチ一発自摸が多いとか(ザオラルの例)、裏ドラがたんまり乗るとか。

このあたりの事例は既に note にて、以下のように紹介させていただいておりますので、今回の ”麻雀らしさ” でのお話では、重複した内容の再掲を控えたいと思います。よろしければご一読ください。

■「配牌が悪い」「自摸が悪い(前半)」

「配牌が悪い」とか「自摸が悪い」とか、良くあることですよね…。私は他の方と比べたことはないですが、そういうことが「あり過ぎる!」と感じています(あぁオカルト)。

「配牌」については、恐ろしくバラバラなことが多く、么九牌ヤオチュウハイがかなりの確率で6~8枚来るのです。むしろ奇跡ではないかと感じてしまい、出だしから本当にうんざりします。それだからと国士無双を毎回狙う訳にもいかず、拾う字牌も相まって、端牌を捨て続けるというリハビリ的な単純作業が始まります。

それらを捨て終わると今度は丁度良いタイミングで危険牌を自模るようになります。配布された無料の対局ポイントばかりでプレイしている仕打ちなのかな?と自虐します。

牌を捨て始めると遭遇するのが、キルクールとハルフールの法則です(牌を切ったら自模るキルクール聴牌したら他家に振るハルフール)。通常、これらは、ここぞ!という時に発生するので、印象深い「あるある」になるのでしょうが、実装しているのではないか?と思うくらい捨て牌と同牌やその傍牌を常態的に自模ります。「いや、これはただセンスがないということか…」という自省と「やってんな!」というオカルトの狭間で悩み、このことを主張しにくくしており、大変心苦しいところです(…いや…、センスなのだろうなぁ)。

ただ、これらは古くはマーフィーの法則のようなものであって、セガMJはマーフィーの法則を実装していたという話もあります(シグナルトークのかや社長もセガ出身だったような)。

■脱線:「シンブンシ」もキルクール?

少し思いついたことがあり、コラム的に脱線します。時々、捨て牌で「シンブンシ、トマト、キツツキ、ドレミ/ドミレ/ミドレ」のようなことはありませんか?

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Twitterでつぶやいた ”捨て牌が被る” の嘆き

ネットマージャンが「シンブンシ」を実装しているわけでは当然ないですね。捨て牌は自分自身のさじ加減でデザインできるので、これらを捨て牌で作るという選択をしているのですが、ただ、その材料を適格に自模ってくるというのがやっかいなお話です。やはり、キルクールはセンスがないということで落ち着きましょうかね…。対局では ”ミス” という分類の判断です。

■「自摸が悪い(後半)」

自摸が良くないのは一局を通して展開されます。まず、「まるじゃん」では、他家にリーチされたら、安牌をことごとく自模らないのです。むしろ、手牌に関係ない危険牌や中牌を自模り始めます。本当は降りたいにも関わらず、「新科学する麻雀」にも記載されている「リーチされたらしっかりベタ降り」が徹底できない仕様なのです。

結局、それらが当たり牌でなかったりするわけですが、「リーチした他家の捨て牌の無筋牌で、複数の危険牌を ”筋”で自模る」という苦しみを味わいます(例:危険牌④⑦を自模ってきて自分では手に余る状態)。

逆に試されるように危険牌を自模り、聴牌させられてからのハルフールという状況も多く体験しているので、これらの疑心暗鬼も加わってからかわれている感じです(←本記事のオカルトの主旨)。

麻雀の基本かも知れませんが、特に「まるじゃん」では「聴牌させられて、捨てるべき予定の不要牌」に注意が必要で、「まるじゃん(≒麻雀)」は「如何にマゲルか?」のゲームだと言えます。結果、マゲてばかりで勝つどころか、一向にあがれず、Twitterで対局結果について「何もやっていない」と感想を書くことになるのです…。

■強打・弱打の機能、ロンの手動化

「まるじゃん」が興味深いのは、捨て牌を強く打ったり(強打)、弱く打ったりする(弱打)機能があることです。

強打したり、弱打で発声が明瞭でなかったりすることは、一般にマナー違反になることですが、それをわざわざ実現できる機能を持っているのです。勿論「された方」は嫌な思いをするでしょうが、リアルで出くわす麻雀らしさ(≒人間らしさ)に制限を加えていないことだと考えます。

また、リーチしたら「自動あがりボタン」を押してお茶でも飲むことがあると思いますが、「まるじゃん」に「自動あがりボタン」はありません。そのため、意図的に「溜めロン」も可能なのです。なお、「溜めロン」についても、少し note を挙げていますので、良ければご一読ください。

このようにわざわざマナー違反ができる仕様であることは興味深いです。これらの「行為」に対して、利用者から運営に対してクレームがあがることも多いと思いますが、これは意図的な仕様なので、利用者が機能の”改善”を要請したり、抗議したりすることはナンセンスなのでしょう。そういう仕様なので諦めましょう。

■ターゲットは高齢者

「まるじゃん」の利用者の年齢層は、高齢者だと言われています。既に運営開始から17周年ということもあり、また比較的プレイ代も高めの設定のため、基本的に無料でプレイできる天鳳などと異なり、プレイヤーの平均年齢は高めなのでしょう。

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そのため、高齢者中心の顧客に対応したサービスの提供が行われることになります。上記の「強打」に関してですが、リアル麻雀での強打は、比較的高齢者に見られることが多いと聞いたことがありますので、なるほど「まるじゃん」はそういう環境などを丁寧に調査しているのかな、と関連付けして想像しました。他にもあるかも知れません。

この記事での主旨ではありませんが、いまだにホームページ上では、独自の掲示板である「まるじゃん広場」を有しており、雀荘に集まる高齢者のおしゃべりのようなサロン的な役割を果たしています(地方のスナックのように常連以外はなかなか顔を出せませんが)。

■初来店のお客様・久しぶりのお客様

麻雀で大事なことは「思い上がり」です。勢いに乗って、相手を見下し、マウントを取って、御託を並べ、自分はいい気分になる、そういう醍醐味です(そういう一面もあるだろうということです)。それを体験することで、継続的なご来店を目指してもらい常連化してもらう工夫がいるでしょう。

最近Twitterで流行りのグラフを提示しないといけないでしょうが、「まるじゃん」はダニング・クルーガーを意図的に実装されているのではないかということです。

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「まるじゃん」を新しく始めた時や、“久しぶり“にプレイすると数試合は勝つな~という感覚があります。このグラフが最初に急伸する部分を確変的なプレイで再現して、パチンコ脳のような状態を形成しているのかも知れないと想像しました。麻雀力が低い人ほど、強烈なビギナーズラック体験をしてもらうことは、「まるじゃん」利用時の初動で非常に効果的なのだろうな、と考えます。

しかし、ダニング・クルーガーの実装が正しければ、速やかに実力などが反映され始めて、成績は低迷するということになるので、再び初動の体験を求め、深く考えずにプレイを中毒的に継続するか、別のアカウントを立ち上げてしまうことになるかも知れません。

■さいごに

「新科学する麻雀」では「利用者が指摘する『牌操作』」のことをオカルトと呼んでおり、そのようなことを運営側がする意図や目的がないことを言っています。天鳳の開発者と著者でその話題になれば、何だかなぁという感じのようです。

一方で、私は、その著者のようなデータをエビデンスにした思考の方は、他のネットマージャンをプレイしたことがないのかな?といぶかります。または、ネットマージャンで理不尽な体験を唱えるオカルトな人のことと言っている訳ではなく、そういうシステムを実装したソフトのことを煽っているのかな?とも思いました。

意外と長くなってきたので、また、適宜追記していこうと思いますが、システムの開発者が「そんなわけねーよ」って言ってくれていれば、私の杞憂なことですし、長々と記載したことは殆どが妄想的な想像です。麻雀を打っていれば、誰もが概ね同等に体験していると信じたいです。

1つ面白いなと感じたのは、かや社長がコラムで「(中略)また、確率などを中心に考えるデジタルという考え方が若い人を中心に最近主流になりつつありますが、私のようにIT会社を経営していながら、何故かオカルトに染まってしまっている人もいます。」とコメントしていることです。

麻雀の確率は数学的の面もあるでしょうが、数学は哲学になると言いますので、麻雀は個々人の哲学だと思えば、オカルトも麻雀の楽しみ方の1つなのだろうな、と秋の夜長に思うのでした。

おしまい

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