「少子化」と、我が子に子どもを産んでほしいか〜江戸川区の事業より
NHKの「おはよう日本」で、「東京・江戸川区が妊娠に関わる検査費用を全額負担」というニュースを伝えていた。
江戸川区のサイトでは、「プレコンセプションケア支援事業」とあり、「将来の妊娠・出産や自らの健康のため、すべての若い男女の健康を応援する取り組み」と書かれている。
女性が持つ、卵巣に残った卵子の数を推測する検査(AMH検査)や、男性の精液検査も希望すれば無料で受けられるらしい。
「おはよう日本」では、アナウンサーの個人的な意見などはあまり強調しない。コメンテーターもいないニュースだったので、色のついていない事実を伝えるものだった。ふーん、と思って聞いていたが、ある事実で、私はえっ、と思った。
対象年齢が、「中学生から39歳までの男女」だったからだ。
1.中学生に対する性教育は今、どうなっているのか
私が最初に「えっ」と思ったのは、中学生と「AMH検査」や「精液検査」のような、いわゆる「ブライダルチェック」みたいなものがどうしても結び付かなかったためだ。(もちろん、この事業はAMH検査等が「わかりやすい」から取り上げられやすいが、それだけではない)
中学生が、「将来の妊娠・出産」を考えて、自治体に相談する。そのなかにはAMH検査もあり、税金を使って支援する。
AMH検査を求める女性は、私の印象だと、妊活中の女性だ。中学生や高校生などの10代で調べる人はいるのだろうか。
しかも、上限は39歳だ。40歳になったら、この助成は受けられない。妊娠確率がきわめて低いので、「意味がない」ということなのだろうか。
そう考えると、これは、「若い世代にもっと子どもを生んでもらわないと」という少子化対策の色合いが濃いように見える。それも、中学生(!)から。
まず、余計なお世話じゃ。と、反射的に思ったのだ。
私の中学時代の性教育といえば、「避妊」が中心だった。
女子校だったこともあり、「男の人の言うなりになってはダメ」みたいなトーンがあった気がする。もっというと、恋愛はむしろやっかいなものとされ、「恋愛より先にやること(≒勉強)」と公言する教師も多かった。
一心不乱に男性も女性も関係なく、好成績を取り、有名大学に進学し、「就職する」という「入試」までは突破したとする。その時点で、23歳だ。そこから、キャリアを積むとすると、5年くらいは頑張りたい、という女性も多そうだ。その時点で、30くらいになる。
そうするうちに気がつくと、世の中(国策)のゲームのルールが変わっていた(らしい)。「少子高齢化」がもう、どうしようもないところに来ていて、働ける人たちの減少が想定以上にまずい。という意見が世の中の多くを占めた(誰にとって困るのか? が私のモヤモヤポイントだ)
少なくとも、女性はキャリアを目指しつつ、子どもも産んでほしい。できれば早めに意識してほしい。というルールになっていた。
「こどもをなるべく早く育てよう」「恋愛は中学生から」とはいわないが、「妊娠をする意識は中学生から」がロコツに見えた。もちろん、そんな言い方はしない。「望む方への支援」だろうし、実際、それで助かる人もいるはずだ。
2.では、中学生の娘にこの検査を受けてほしいか? NO!
日本が少子化で、そこが最大の国難である。その対策が必要だ。そういった課題はわかった。
ここからが私のモヤモヤポイントだ。娘を持つ親として、娘に「あなたは女の子です。将来の妊娠・出産を考えましょう」と話すだろうか。そうでもないな。と思って気がついたのだ。
「私は別に、現時点で、娘(たち)に子どもを生んでほしいとは思っていない」
ということに。
人間が生まれ落ちて、赤ちゃんから子どもになっていく過程を間近で見る。成長、というものの凄まじさを実感できる、というのは、変え難い経験だった。感謝しかない。可能性とか未来のカタマリをそばで見る、というものがこんなに希望に満ちたものだとは、私も夫もわかっていなかった。
わたしたちにとって、「娘が来てくれたから、教えてもらったもの」はかけがえのない幸せだ。だから、子どもが来てくれてよかったなあ、と思う。
だけど、別に娘に親の希望として子どもを生んでほしい、とはまったく(100%と言える)思っていない。「お母さんは私を生んでよかった?」と聞かれたら、「もちろん! こんなかわいい子が来てくれるなんて、と思ってる」といつも答えている。嘘ではない。ただ、これは「私」の経験でしかない。彼女の人生は彼女のものだ。私のものではないし、ましてや、国のためでもない。
そこまで考えて、私は(江戸川区に住んでいるわけではないが)仮にこの検査が受けられるとしても、中学生というまだ義務教育期間中で、親が助けるであろう年齢の娘にこの検査を勧めるか、と言われたら、しない。
3.少子化と個人の幸せが絡み合う
少子化の問題が難しいのは、「人間が子どもを産み育てる」というきわめて個人的でデリケートな話が、「社会保障」だとか「GDP」だとか「労働生産人口」だとかのマクロな話につながっていることだ。
「妊娠しました」「出産しました」と話したとき、「社会に貢献していますね」「将来の年金のためにありがとう」など言われた(一人や二人ではない)。
「今、一番大事にされる存在だよね。働きながら子育て。電車とかでも、妊婦さんだったら堂々と椅子座れるでしょ」と言われたこともある。
すべて返答に困った。
妊娠も出産もうれしいという感情はいっぱいあったけど、社会に貢献した! という感情はなかった。個人の気持ちだけ先立って、夫との子どもができてよかったな、とか、これからの生活への不安の方が強かった。
ただ、これは、今、「少子高齢化」だから、子どもがいる自分は生きづらさを感じずに、気にせずにいられるのかもしれない(電車でそんなに席をゆずられたことはないが)。
今、子どもを作れる確率の高い若い世代に「もっと出産に目を向けて」と、婚活や出産を推奨する動きがあるのは、よくわかる。
しかし、自分を振り返ったとき、20代はもっと自分ファーストで生きていた(今も家族ファーストを決めているのは自分だから、自分ファーストだ!)
「(早く産まないと)あとから後悔するよ」と言われても、やっぱりピンと来なかっただろうし、それは「今、子どもをもっと作らないと!」という少子化対策を叫ぶ人たちも、当時はどうだったんだろうか。
ましてや、男性ばかりの政治の世界で、脂の乗った20代、30代にキャリアの中断をした経験のある男性が どれほどいるというのだろう。
私は、女性として生まれて進学し就職して、二度目の出産によるキャリアブレイク中だ。後悔はまったくないし、ストップコールはありがたい時間だ。その前提で、やっぱり国とか世間と、一人の人間の幸せだったら、比べるまもなく後者の方が重い。
「出産・子育て」は、自分が幸せに生きるための選択、というものと、やっかいに絡み合っているトピックだな、と考えさせられる。。
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