見出し画像

拘ること、について

Verde姉さんから次回の大人相談会のテーマが送られてきました。

そこで自分の中で拘っていることは何だろうと考えてみたんですが、あまり思い付きません。好きなことはサッカー、旅などを中心にたくさんありますが、単に好きだからやり続けているので、そこに拘りはないような気がします。好きで続けていることに、これじゃなきゃいけないとか、こうあるべきといった哲学みたいなものはないのです。

食べ物だったら拘りはあるかなあ。両親はそれこそ昭和の人たちなので、塩ジャケは塩がたくさんないとダメだとか、マーガリンは邪道でバター(それも雪印)こそパンに付ける王道だ、という面倒くさい拘りがあります。

私自身はというと食べ物もあまり拘りないです。あえて言えばあんまんのアンコは、粒あんじゃなくてこし餡じゃなきゃダメだろう!くらいしか思い浮かびません笑。でも大福は粒あんでも良いです、なんてもう人生の哲学からほど遠い単なる嗜好の話になっちゃいますねー、スミマセン。

拘る、というとネガティブな執着するといった意味になるので、ここはあえて「のめり込むこと」と捉えて考えてみますね。

私は若い頃から何か好きになると、それをとことんまで味わいたい、追求したい!と思う性質があります。サッカーは小学生の時にスペインで開かれたワールドカップを見てから、やる方も見る方も気が狂ったようにのめり込みました。

あと読書も好きでして、それも同じように偏った感じになります。例えば村上龍が好きになったら、全著作を片っ端から読んでいく、という具合です。あの頃はロバートBパーカーも全作品読んでました。

ただし、一つのことにのめり込んで詳しくなればなるほどですね、あることに気が付きます。それは上には上がいる、ということです。サッカーを見ることはワールドカップを現地まで見に行くほど詳しかったですけど、それでも国内なら年間300試合観戦する人とか、海外なら何年も放浪しながらサッカー見続けている人とか、まぁまぁ存在するのです。

そんな極端なところまで自分が到達できるか、といえば様々な理由があって辿りつけませんでした。その理由は直接的にはお金とか時間なのですが、本当の理由はサッカー以外は全ていらねえ、くらいまで情熱を注ぐことが出来なかったからです。大学を中退してサッカー観戦放浪の旅に出る、なんてパッションはなかったのです。

私は高校から大学へ行っていわゆる一部上場企業へ就職しました。ほぼ同時期に好きな人と結婚して、その後子供を二人もうけて育てました。転職は3回しつつも、今も会社員として働いています。それだけ書くと実に一般的な人生だなと思われてしまうけど、そこから完全に外れるという選択はしませんでした。そしてその選択について今でも後悔というのは微塵もないです。

ある意味、どこかで「手放して」現実的に生きていくことを選択したわけです。それは確かにテレビで取り上げられるようなドラマティックな人生ではないです。が、いちどアルゼンチンだったかな、海外でプロサッカー選手としてプレーした方と話をしたことありまして、その時言われたんです。

私はずーっとアマチュアとして30年くらい草サッカーしてるのですが、その方は私のことを羨ましいと言ったのです。プロとしてサッカーをやってしまうと、もう趣味のような形でサッカーをすることができないのだそうです。緊張感のある中で職業としてサッカーしてきたということで、極めるだけ極めた結果、アマチュアには戻れないのだなと思いました(中には現役引退後、趣味で続けられる選手もいると思います)。

サッカーを見る方も、私はジャーナリストや専門家になるほどではありませんが、今でも毎年横浜F・マリノスの年間チケットを買って週末はスタジアム観戦しています。共に観戦する仲間もいて、かなり満足度の高い楽しみ方をしています。そしてそれは、会社員として一定の収入があるからこそ可能になります。

つまり好きなことに対するスタンスは様々な形があり、長い目でみて何が自分にとって合っているかは、後になってみないと分からないのです。いわゆる普通の、一般的な日本人の仕事や生活をしながら、好きなことを長く長く続けていく。その結果として、あのときに短期的にのめり込まなくても、充実したサッカーライフを送れているよなと感じます。

無理のないペースで好きなことを長く続けていく。これがある意味、自分なりの拘りなのかなと思いました。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?