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4月3日 子どもの歌と、家隆のしょんぼり

糸くずになるまで身を裂くピーマンはそれでも吾子の口に入れず

気をぬるみ桜も衣を脱ぎつらむ吾子が毛布を蹴飛ばし寝居り

2歳はちゅう4歳はぎゅう7歳は顔を背けておやすみなさい

☆ ☆ ☆

 上の二首目「気をぬるみ」は、眼前の景色を下句に、その景色から想像する桜の姿を上句に詠んだ。

 実景→想像という手法がちょっと似ていて、この歌が気になった。

吉野川岸の山吹咲きにけり峰の桜は散りはてぬらむ
           (新古今・春歌下・藤原家隆)

 吉野川は奈良県の真ん中あたりを西に流れて和歌山に出る川だ。無論、吉野山の傍を通る。花を期待する。しかし、山吹。なぜか。紀貫之のせいだ。

吉野川岸の山吹吹く風に底の影さへうつろひにけり(古今集・春下)

 この歌で貫之は、吉野川に山吹を組み合わせるフォロワーを生み出した。

 どんな歌だったか。
 山吹が風で散る。すると水底に映って見える山吹の影までもが散っていく。「いや当たり前やろ」という突っ込みは野暮。実物がだめならせめて影だけでも、幻だけでも残ってほしいと期待するのが数寄の心というもの。
 しかしやはり、影も散る。しょんぼりだ。実物が散ってしょんぼりする人より、影が散ってしょんぼりする人のほうが、深刻さは上だろう。沼にはまりこんでいる雰囲気が良く出ている。歌人沼だ。

 家隆はその貫之の趣向を分かっている。分かっていながら、山吹を咲かせた。上句で「お、咲いたのか」と気持ちを上げてみせた。そこで山吹を愛でるだろうか。いやそんなことをすれば貫之の歌を踏みにじるに等しい。「吉野川×山吹」では、しょんぼりしなくては無粋。しかし山吹を使ってしょんぼりしても、貫之の発想には勝てない。そこで、桜を散らせた。
 「おお!?」からしょんぼりへ。貫之がしょんぼりから一層のしょんぼりへ深めたのに対し、家隆は高まりからしょんぼりへ、落差を作って見せたともいえるだろう。工夫の影が見えて、面白い。

吉野川で
岸の山吹が
何と、私の場合は咲いていたよ
…でも、山吹が咲く時期となると、吉野の峰のあの桜は
きっと残らず散ってしまったのだろう






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