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【短歌と和歌と、時々俳句】19 後水尾院の月

 4歳の娘が幼稚園の当番の日だった。仕事が休みだった僕は妻と娘の様子を見に行った。娘はたけ組の教室から男の子と手を繋いで走り出た。繋いでない方の手をぐるぐる回しながらかけてくる。園長先生の前に来ると
「今日のお休みは女の子3人、男の子4人です」
と報告を終えた。園長先生がおへそをくすぐる。娘は笑って身を捩る。
 午後に妻の祖父を見舞いにいった。99歳を目前にして急激に体力が衰えている。妻が娘の話をした。妻の祖父はあまり動かない口から意外なほど大きな声で曾孫の名を呼んだ。

 後水尾院の和歌を読んでいる。平安末期の和歌を中心に学んできた僕には後水尾院知識はほとんどない。とりあえず虚心坦懐にページをめくる。

暮れぬれば沖の友船漕ぎ別れおのが浦々月や見るらん

後水尾院御集 471

 沖に集まった船は日暮れと共にそれぞれの港に帰っていく。その様子を哀感を込めて詠んでいるように思える。
 調べてみるとこの歌には二つの表現史の流れが注ぎ込んでいるようだ。一つは集まった船が別れていく様子を詠む発想。古いところでは平安末期の西行歌にみえる。

友になりて同じ湊を出で舟の行方も知らず漕ぎ別れぬる

西行『山家集』1544

 ただしこちらの歌で舟が一緒にいたのは湊だ。同じ湊からそれぞれの行く先へ向かう船を詠む。

 その西行を「生得の歌人」と呼び敬意を払った後鳥羽院に次の歌がある。

泊まりする一夜の契り漕ぎ別れおのがさまざま出づる舟人

玉葉和歌集・旅・1237 後鳥羽院

 この後鳥羽院歌で舟が泊まっているのはどこなのだろう。停泊はしているのだろうがそれは一夜限りだ。常日頃出入りしている湊ではない。歌題は「寄海朝」だ。
 中川博夫は「同じ碇泊場所に集った舟が区区に出航することを詠じる新鮮な趣向」とした。そして先の西行歌をその始まりと考えている(和歌文学大系『玉葉和歌集 上』補注)。泊まり場所がどこなのかは分からない。しかし夜に集った舟が朝にそれぞれ出港していくという風景はこの頃共有されていたようだ。

 『玉葉和歌集』では上の後鳥羽院歌の次に伏見院の歌が並ぶ。伏見院は西行を慕った京極派の歌人だ。そして後鳥羽院を慕った帝王でもある。

梶枕一夜並ぶる友船も明日の泊まりや己が浦々

玉葉和歌集・旅・1238・伏見院

 この歌は西行や後鳥羽院の影響が直接あるかどうかは分からないにしろ、同じ主題を歌っているとみなして良いだろう。そしてこの伏見院歌には後水尾院に引き継がれるもう一つの表現史が見出せる。「己が浦々」だ。
 この「己が浦々」はわりあい系譜がはっきりしている言葉だ。平安前期の拾遺和歌集に柿本人麻呂詠として次の作がある。

白浪は立てど衣に重ならず明石も須磨も己が浦々

拾遺和歌集・雑上・477 柿本人麻呂

 そして藤原伊周らの悲しみに満ちた別れを描いた巻に「浦々の別れ」と優雅な名前をつけたのが『栄花物語』である。人麻呂歌によった巻名だろう。

 つまり後水尾院歌には西行を始点とする「集い散じる舟の景」を歌う表現史と拾遺和歌集を始点とする「己が浦々」の表現史が流れ込んでいるというわけだ。こうして後水尾院歌を解体してみた時に残るのが「月」だ。
 この「月」は別れ行く舟の景に月を見上げる舟人のイメージを加えてみたと考えることもできよう。しかし「己が浦々」が最初に歌われた柿本人麻呂歌には須磨と明石が歌われていた。そして人麻呂は知らないだろうが平安中期以降の貴族にとって須磨と明石は『源氏物語』でも一二を争う有名なシーンが描かれる舞台だ。言うまでもなく光源氏が月を見上げて白居易の「三五夜中新月色 二千里外故人心」を呟き都の女性たちを思うシーンである。とすれば後水尾院の「月や見るらん」には須磨で侘しく月を見上げる光源氏のイメージも重ねてあったと見ても良いのではなかろうか。

 と言うわけで今夜は『後水尾院御集』の歌を読んでみた。表現史を探るのは天才たちの発想を探るのと同義。楽しいな。

 




 

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