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ジャズとクラシックの100年【第3回】 1960-70年代:[前編]ジャズでもクラシックでもない音楽

誤解なきよう最初に断言してしまおう。(たとえ熱心なジャズファンや、クラシック、現代音楽ファンであろうとも)おそらく殆どの人にとって、本章の主人公であるガンサー・シュラーの作品は「退屈な音楽」だ。この後に続く長い文章を読めば、彼の作曲した音楽が魅力的に聴けるようになる……ということも無いだろう。

でもシュラーについて知る必要がないかといえば、そうではない。シュラーの生涯を追うことで、現代ジャズを紐解く糸口が色々と見えてくるからだ。騙されたと思って、お付き合いいただきたい。

――逸脱者としてのガンサー・シュラー(1925-2015)

1957年、ブランダイス大学の教壇に立ったシュラーは「サード・ストリーム(第3の流れ)」というコンセプト名を発表。これにより、それまで様々な角度から接近していたジャズとクラシックの関係は、新たな局面を迎えるのだが……それがどのような意味を持っているのかを把握するためには、時代を少し遡る必要がありそうだ。シュラーの作品リストディスコグラフィーを道標にしつつ、歩みを追いかけてみよう。

1943-54年:サード・ストリーム以前

シュラーの父はニューヨーク・フィルハーモニック管弦楽団のヴァイオリン奏者であったというから、英才教育を施されたのだろう。10代からプロのクラシックのホルン奏者として活動をはじめ、1959年まではメトロポリタン歌劇場管弦楽団の奏者を務めていた(つまり、サード・ストリームを打ち出した時点の本業は、オーケストラ・プレーヤーだったのだ!)。ホルン奏者のかたわら、並行して独学で作曲活動も開始。公式サイトの作品リストに最初の作品として掲載されている「ホルン協奏曲第1番」(1943)を聴いてみよう。

二十歳前(11月生まれのため、おそらく17歳時に完成)、しかも独学で学んだ青年が書き上げたものとしては驚くべき出来栄えである。早熟の天才といって間違いないが、この時点ではジャズの要素が含まれていない。シュラーとジャズとの関わりが明確になるのは「Jumpin’ in the Future」(1947)という楽曲からだ[※脚註1]。変則的なジャズ・アンサンブルのために書かれた作品で、ソロやドラムスのパートも含めて、全ての音符が楽譜上で確定されている(こちらのサイトでシュラーの譜面を確認できる)。

この作品の特徴を掴むには、ジャズ・アンサンブルのために作曲されており、作曲年も近いバーンスタインの『前奏曲、フーガとリフス Prelude, Fugue and Riffs』(1949)と比較するのが良さそうだ。バーンスタインはスウィング期ビッグバンドの、ステレオタイプ的サウンドを、クラシック音楽的な手法で作曲し直したと捉えられるのに対して、シュラーの方はビッグバンドのアレンジャーがソロまで全て楽譜に書いてしまったという塩梅だ。

この時点で既にシュラーのスタンスは、【第1回】や【第2回】で紹介したような、クラシックの作曲家がジャズを取り入れた作品と大きく異なっていることが確認できる。

そして「Jumpin’ in the Future」から3年後、シュラーはホルン奏者としてマイルス・デイヴィス『クールの誕生』のレコーディングに参加。現在CDに収められている12の楽曲は4曲ずつ、3回に分けてレコーディングされているが、シュラーが参加しているのはそのうちのラスト ――「Moon Dreams」「Deception」「Rocker」「Dam That Dream」が収録された1950年3月9日のみである。

こうして20代前半のシュラーは一気にジャズへと接近していくのだが、同時に最新のクラシック音楽(=現代音楽)にも強い関心を寄せていた。1947年に作曲された「Symphonic Study」でも調性を逸脱しようとする志向は感じ取れるが、より影響関係が分かりやすいのは1950年に作曲された「Symphony for Brass and Percussion, Op. 16」である。この作品の第4楽章冒頭と、アルバン・ベルクの歌劇『ルル』冒頭を聴き比べてみよう。

音の方向性、音使いの近似性から、シュラーがベルク作品のこの部分を意識しているのは明らかなように思われる。実際、ダーシー・ジェイムス・アーギューによるインタビューにおいて、シュラーはシェーンベルク、ベルク、ウェーベルン(3人合わせて「新ウィーン楽派」)を勉強し、この第4楽章を(シェーンベルクが考案した)12音技法で作曲したと答えている。

こうして1950年からしばらくの間、シュラーは12音技法などを駆使した調性のない音楽を探求していった(例えば「Dramatic Overture」(1951)、「Fantasy for unaccompanied cello」(1951)、「Recitative and Rondo」(1954) など)。ジャズとの関わりは、ホルンが必要とされるレコーディングに時おりお声がかかる程度に過ぎなかった。

1955-66年:サード・ストリーム

次なる転機は1955年に起こった。モダン・ジャズ・カルテットのメンバーでもあるピアニストのジョン・ルイスを中心にModern Jazz Society――後にJazz and Classical Music Societyに名称変更――というアンサンブルが結成される。『クールの誕生』でルイスと共演経験のあったシュラーも参加し、3月のレコーディングではホルン奏者としてだけでなく、アレンジャーとしても関わった。前掲したディスコグラフィーによれば、プライベート録音などを除けば、アレンジャーとしてレコーディングに参加するのはこれが初だった模様。シュラーが編曲したのは「The Queen's Fancy」と「Django」の2曲である。

おそらくはこのアレンジがきっかけになって、その後はシュラーの作曲作品も取り上げることになり、同年11月に「Twelve by Eleven」(1955)を、1957年6月には「Transformation」(1956)が録音された。どちらも"for large chamber ensemble(大室内アンサンブルのために)"と付記されており、後者のレコーディングにはルイスだけでなく、モダン・ジャズ・カルテットのメンバー全員が参加していた。これらの作品から既に、シュラーのサード・ストリームが始まっていたと見なすべきであろう。

実際の作品を聴けば分かるように、この時のシュラーの興味は「ジャズ」と――「クラシック」ではなく!――「現代音楽」をどう結びつけるかにあった。ちなみに「Transformation」の現代音楽的なセクションには明らかな元ネタがある。イタリアの現代音楽作曲家ルイジ・ノーノの『Polifonica Monodia Ritmica』(1951)だ。

なぜ断言できるかといえば、1955年11月19日にシュラーがこの作品を指揮しているからである。その時の演奏者にもモダン・ジャズ・カルテットのメンバーも含まれていたというから興味深い。そしてこの作品を書いたノーノは、新ウィーン楽派のなかでも特にウェーベルンの強い影響下にあることを鑑みれば、シュラーの志向していた方角が現代音楽のメイン・ストリームと、かなり近しいものであったことが徐々に見えてくる。

いよいよ、本章冒頭に記述した1957年のブランダイス大学まで辿り着いた。6月にブランダイス大学で開かれた芸術祭でシュラーは、チャールズ・ミンガス、ビル・エヴァンス、ジョージ・ラッセルらといった豪華なメンバーと共にコンサートを開催し、録音も残している(6月10日、18日、20日)。どんな曲目が演奏されたのかを見てみよう。

10日
ジョージ・ラッセル「All About Rosie」
ジミー・ジュフリー「Suspensions」
18日
チャールズ・ミンガス「Revelations」
ミルトン・バビット「All Set」
20日
ジョージ・ラッセル「All About Rosie」
ガンサー・シュラー「Transformation」
ハロルド・シャピロ「On Green Mountain (Chaconne After Monteverdi)」

ラッセル、ジュフリー、ミンガスは「ジャズ」、バビット、シュラー、シャピロは「現代音楽」……と丁度、半々になる人選になっているが、実際の音楽のスタイルは多種多様である。特に注目したいのはミルトン・バビットだ。

彼は、12音技法(とりわけウェーベルンの音楽)をより発展させた「トータル・セリー」や「ピッチ・クラス・セット」といった理論的な前衛音楽をアメリカで先導しており、つまりはベルクやノーノと同じ「セリー」による音楽を志向していた作曲家である。そんな当時最先端の現代音楽を手がけていた作曲家に、ブランダイス大学からの委嘱でジャズアンサンブルのための作品を書かせたのが「All Set」という作品なのだ。

↑ ガンサー・シュラー指揮による録音

↑ クラシックの演奏家による録音

穿った見方をすれば、バビットに作曲を依頼することでジャズの編成でも最先端の現代音楽を追求できることを証明し、地位向上を目指そうとしていた下心があったのではないか。いずれにせよ、サード・ストリームというコンセプトを打ち出した時点で「現代音楽」と「ジャズ」の接近は、ここまで来ていたのだ(その後、1962年5月19日にはシュラー指揮でジョン・ケージ、ルチアーノ・ベリオが演奏され、エリック・ドルフィーがエドガー・ヴァレーズの「Density 21.5」をフルートで演奏するところまで、現代音楽の受容は進んだ)。

サード・ストリームを宣言した1957年以降のシュラー作品については数が多いため、全ての作品を追うことはせずに編成でジャズ・ミュージシャンを指定している楽曲だけを抜粋してみよう [※脚註2]。

Concertino for Jazz Quartet and Orchestra (1959)
Conversations for Jazz Quartet and String Quartet (1959)
Variants on a Theme of Thelonious Monk (Criss-Cross) (1960) for jazz quartet and orchestra
Variants on a Theme of John Lewis (Django) (1960) for jazz quartet and small ensemble
Journey into Jazz (1962) for narrator, jazz quintet, and orchestra
Opera "The Visitation" (1966) ※編成表にJazz Comboが含まれている。1970年には組曲に編曲

Headin’ Out, Movin’ In (1994) for tenor saxophone and jazz ensemble
Lament for M (1994) for jazz tenor saxophone and orchestra
Rush Hour on 23rd Street (1994?) for tenor saxophone and jazz ensemble
Encounters (2003) for six voice (optional), alto saxophone, tenor saxophone, trumpet, jazz band, and orchestra

ここで注目すべきは1966年を最後に、28年後の1994年まで長らくジャズ・ミュージシャンを指定した作品を書かなかったという事実だ(ジャズ的な要素が楽曲に表れるとしても、それは楽譜に書かれたものが演奏されるため、編成にジャズ・ミュージシャンが指定されていないのだ)。加えてジョン・ルイスらと継続して行ってきたレコーディング活動も、1965年までで休止状態となっている。

要するに事実上、シュラーのサード・ストリームはここで一旦終了となってしまう。その最も大きな原因となったのが、1967年からニューイングランド音楽院の院長(President)にシュラーが就任したことだと考えられる。

1967-94年:サード・ストリーム以後

そもそもシュラーが院長に赴任した時点ではニューイングランド音楽院どころか、全米の大学・音楽院にジャズ専攻が存在していなかった(あのバークリー音楽大学が大学として認可されたのは1970年のことだ)。2年間の準備期間を経て、1969年に「ジャズ研究 Jazz Studies」という専攻を設置。その際にシュラーが教員として呼んだのが、ジョージ・ラッセル(1923-2009)とジャキ・バイアード(1922-99)であった(ラッセルは、この音楽院を拠点にリディアン・クロマティック・コンセプトを教育。バイアードはフレッド・ハーシュやジェイソン・モランらの師にあたり、両名とも現在はニューイングランド音楽院で指導にもあたっている)。

つまり――やや大袈裟ではあるが――シュラーによって、ジャズは大学で学べるアカデミックな存在になったのだ。実際、院長の就任が可能になったのはジャズを最先端の現代音楽へと結びつけようとするシュラーの活動がクラシック側から認められていたからであろう。

加えて、1958年の時点でシュラーは、ジャズをアカデミックに捉えるべく、論文 "Sonny Rollins and the Challenge of Thematic Improvisation." を発表していた。ロリンズの「Blue 7」(『サキソフォン・コロッサス』に収録)を例に、ジャズの即興演奏が論理的になされていることを分析したのだ[※脚註3]。こうした成果を残していたことも、音楽院の院長に相応しかったわけだ。

学長に就任した翌年(1968年)にも、ジャズの研究者として『初期のジャズ ~その根源と音楽的発展』という大著を発表。大学でジャズを教える基盤を整えたのだ。その結果、シュラーの興味はルーツ・ミュージックへと向かう。まずはラグタイムだ。1973年公開の映画『スティング』によって、爆発的なラグタイム・リバイバルが起こったことはよく知られているが、そこに辿り着くまでに実はシュラーも一枚噛んでいる。

1940年代から徐々にリバイバルが始まっていたラグタイムだが、『スティング』へ直接繋がる起点となったのは、ジャズの愛好家ルディ・ブレッシュらによる『They All Played Ragtime』(初版1950年~第4版1971年)という書籍だった。ブレッシュはオフィスをシェアしていた作曲家のウィリアム・ボルコムにラグタイムの楽譜を提供。ジョプリンの音楽に魅せられたボルコムは、1967年からラグタイムを多数作曲している。その翌年(1968年)にボルコムを通じて、ラグタイムを再発見したのが音楽学者・指揮者のジョシュア・リフキンだった。リフキンは1970年からノンサッチ・レコードにスコット・ジョプリン作品集をアルバム3枚分収録。これがヒットしたことで、再び大きな脚光があたりはじめる。

シュラーも前述した研究書『初期のジャズ』のなかで、起源のひとつとしてラグタイムを取り扱っているが、実際の行動に移したのは1973年2月。ピアノ曲であるラグタイムを室内楽にアレンジした楽譜「The Red Back Book」(20世紀初頭に出版、正式名は「Standard High-Class Rags」)を手にしたシュラーは、音楽院内でNew England Conservatory Ragtime Ensembleを結成してレコーディングを行った。

このレコードは大ヒットし、1974年のグラミー賞ではBest Chamber Music Performanceを受賞している。そして、1972年に蘇演されていたジョプリンのオペラ『トゥリーモニシャ』をオーケストレーションし直して、1976年にヒューストンオペラで上演、こちらもレコーディングを行う。その結果、同年のピューリッツァー賞音楽部門で既に故人であったスコット・ジョプリンに特別賞が贈られた。特別賞とはいえ、白人の(どちらかといえば保守的な)現代音楽を受賞対象にしてきた賞であったから、実に画期的な出来事であった。

※1982年再演時の映像のため、指揮はシュラーではない。

こうしたルーツ・ミュージック志向の結果、取り上げたのはジョプリンだけではない。ラグタイムの他の作曲家や、デューク・エリントン、ルイス・モロー・ゴットシャルク(19世紀のアフリカ系ピアニスト)、チャールズ・アイヴズ(アメリカ芸術音楽の父)、ジェリー・ロール・モートン("自称"ジャズの発明者)、ジョン・フィリップ・スーザ(マーチ王)、アーヴィング・バーリン(ポピュラーソング)……と、多角的にアメリカ音楽の起源となっている音楽を1970年代に集中的に録音している。

このように見てくると、ガンサー・シュラーが1960年代末から70年代かけて行ってきたことは1980年代以降のウィントン・マルサリスの先駆をなすものであったことが浮かび上がってくる。シュラーは「現代音楽」を、マルサリスは「クラシック」を権威付けに用いたところが違っていたが、ルーツ・ミュージックへの志向はかなり近しいものがある。そう考えるとマルサリスにとってのリンカーンセンターが、シュラーにとってのニューイングランド音楽院の「ジャズ研究」専攻だったわけだ。

1969年に設立されたこの専攻がその後どのように展開したかは、40周年記念コンサートのライヴ録音(2009年)の顔ぶれと曲目が象徴的だろう。是非、各自でお聴きいただきたい。

敢えてひとつだけ取り上げるとすれば、マリア・シュナイダーなどの現代ラージアンサンブルに多大な影響を与えたボブ・ブルックマイヤー(1929-2011)にご注目いただきたい。彼もニューイングランド音楽院の教員であったため、この記念公演に参加している。

ブルックマイヤーはクロード・ソーンヒル楽団でトロンボーン奏者としてのキャリアを本格的に開始、スタン・ゲッツやジェリー・マリガンのバンドで活動しつつ、1958年にはサード・ストリームに深く関わったジミー・ジュフリーの3枚のアルバムレコーディングに参加している。

シュラーとは1961年のマリガンのレコーディングで同じ現場に何度も参加した間柄だった。1965年頃には一度、シュラーが仕切るレコーディングにも参加している。こうして見てくると、ブルックマイヤーもサード・ストリームの流れの中から出てきた作編曲家として捉えるべきであることが理解できるだろう。

閑話休題――再びシュラーの話に戻ろう。1977年に院長を退任してからも、しばらくはルーツ・ミュージックの演奏・録音に取り組んでいたが、1988年から徐々に自作の演奏にも再び力を入れ始める(1965年以来か?)。その際にキーワードとなるのが「家族」だ。

1988年、久々に取り組んだ自作のレコーディングには、ドラムス奏者の次男ジョージ・シュラー(1958- )が参加している。そして前述した通り、1994年には久々に編成にジャズ・ミュージシャンを指定した作品が書かれている(「Headin’ Out, Movin’ In」「Lament for M」「Rush Hour on 23rd Street」)のだが、これら3曲すべてのレコーディングに息子たちが(次男ジョージだけでなく、ベース奏者の長男エド・シュラー(1955- )も!)参加していることを思えば、彼らがプロのジャズ・ミュージシャンになったことが自作を演奏するモチベーションにもなったのだろうと想像される。

しかしながら、喜ばしいことばかりではなかった。1992年に妻が亡くなってしまうのだ。翌1993年にはその悲しみを作品にこめた「Of Reminiscences and Reflections」を作曲し、なんとこの作品で1994年のピューリッツァー賞音楽部門を受賞する。

この受賞はまさにエポックメイキングな出来事であり、しかも単に現代音楽の作曲家として評価されたわけではなさそうなのは、翌1995年にはジャズやポピュラー音楽を取り入れた作品を手がけていたモートン・グールドがピューリッツァー賞を獲っているからだ。ジャズやポピュラー音楽との関わりのある作曲家を評価しようという傾向がはっきりと見て取れる。その後も1997年はウィントン・マルサリス、2007年はオーネット・コールマンが受賞している。

そして前述したジョプリンが獲った「特別賞」については、1998年にジョージ・ガーシュウィン、1999年にデューク・エリントン、2006年にセロニアス・モンク、2007年にジョン・コルトレーン、2008年にボブ・ディラン(存命)、2010年にハンク・ウィリアムスに与えられている。

こうしたバックグラウンドがあって初めて、2018年の受賞者にケンドリック・ラマーが選ばれるに至ったのだ。そう考えればシュラーによって生じた1976年のスコット・ジョプリンへの特別賞、1994年のシュラー自身の受賞が、如何に先駆的で意義あることかが分かるはずだ。

妻を失いつつも、アメリカ芸術界最高の栄誉と、自分の音楽を後世に引き継いでくれそうな2人のミュージシャンを得たシュラーだったが、ピューリッツァー賞を獲った1994年を境に、一気に創作ペースが落ちていく。(2012年3作、2013年4作というやや例外的な年もあるけども)各年0~2作というペースで、2015年6月に89歳で亡くなるまで現役の作曲家であり続けた。

これでシュラーの物語は終わったが、本章冒頭で不躾にも断言した通り、作品自体の退屈さは否めないままだ。しかしながら作曲家としてだけでなく様々な側面でもってジャズの世界に新たな価値観を持ち込んでいった重要人物であることが、少しでも伝われば幸いである。

もし改めて作曲家として評価されることがあるとすれば、それは新しい世代の録音次第であろう。一度取り上げた1959年作曲の「ジャズカルテットとオーケストラのための小協奏曲 Concertino for Jazz Quartet and Orchestra」をモダン・ジャズ・カルテットによる旧録と、シュラーの息子たちが参加した新録で聴き比べてみよう。

筆者の結論をいえば、新録の方が、ある種の現代音楽らしい時代懸かったサウンドから開放され、異なる要素がバランスよく混じり合っている。シュラーのサード・ストリーム再評価については、こうした新しい演奏の登場が必要不可欠だと思われるのだ。個人的に待望しているのは、(前述したように)シュラーにインタビューした経験もあるダーシー・ジェイムス・アーギューが企画するシュラーへのトリビュートである(もちろんそんな予定があるわけではなく、単なる妄想に過ぎないのだが)。


そして、おそらくは多くの聴衆から期待されていた「ジャズ」と「クラシック」の高度な混合(ここまで追ってきて分かるように、残念ながらそれはシュラー自身がサード・ストリームに求めたことではなかった)については、どちらかといえば同時代に活躍した作編曲家のクラウス・オガーマンの領域である。中編ではオガーマンを、後編では2つの領域にまたがる要素をもつピアニストと、ジャズと密接な関係にあるミニマル・ミュージックについて読み解くことにしよう。

👉【第4回】 1960-70年代:[中編]ジャズでもクラシックでもある音楽


脚註

※1:それ以前の作品であっても、例えばコントラバス四重奏曲の曲目解説で「ジャズ・ピチカート」という形容があるが、それほど強くジャズ的サウンドが前面にでるわけではない。

※2:ただし、編成にジャズ・ミュージシャンが指定されていなくとも、ジャズ的な要素が含まれる楽曲は多数存在している。例えば……
Abstraction (1960) for 9 instruments
Densities No. 1 (1962) for clarinet, harp, vibraphone, and double bass

※3:シュラーの論文は、ジャズ研究が進んだ現在では盛大に批判される対照となっている。しかしながら1950年代の時点で「評論」ではなく「研究」を行おうとした先駆性については評価すべきである。

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小室 敬幸
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