見出し画像

『聴かずぎらいのための吹奏楽入門』は何故、コンクールを軸に吹奏楽を語ったのか?

 2023年6月26日にアルテスパブリッシングから発売された拙著『聴かずぎらいのための吹奏楽入門』は、ありがたいことに概ね好評な反応をいただいております。

しかしリアクションのなかには、批判の声も複数いただきました。SNSやメールで届いた様々な批判的見解の根幹はおおよそ一致していて、それは……

吹奏楽という閉じた世界を飛び出そうとうたっているのに、コンクールをメイントピックにするのは不適切ではないか?

ひとりひとり細部は異なりますが、確認できた範疇では「コンクールを通して吹奏楽を語ること」が批判に共通する要素になっています。

 わたし(小室)と漆畑、ふたりの共著者は、どうしてコンクールを軸にして吹奏楽の本を書くという判断をしたのか? それをご説明すれば、少なくとも著者にとっては前述したような批判が的外れにしか見えないということがお分かりいただけるかと思います。

 

理由1)出版社からの依頼内容に沿った判断

 出版社から2018年にご依頼いただいた際、最初に言われたことのひとつが「『文化系のためのヒップホップ入門』の吹奏楽版を作ってほしい」といった趣旨の言葉でした。

 『文化系のためのヒップホップ入門』はご依頼いただいた編集者さんが過去に担当した書籍で、アルテスパブリッシングのラインナップのなかでも大きくヒットした1冊(続編が「3」まで出ています)。長谷川町蔵さんの立ち位置を漆畑が、大和田俊之さんの立ち位置を担って、吹奏楽を語る本を……という依頼だったわけです。

 そして(私の考える)『文化系のためのヒップホップ入門』の本質的なポイントは、第1部の早い段階で出てくる。

長谷川 (中略)ヒップホップをロックと同じように音楽だと思うから面白さがわからないのであって、「ヒップホップは音楽ではない」、そう考えれば、逆にヒップホップの面白さが見えてくるんです。
大和田 えっ! ヒップホップは音楽じゃないんですか! 大丈夫でしょうか。この本、まだ始まったばかりなんですけど。でも音楽じゃないとするとなんでしょう?
長谷川 すばり、一定のルールのもとで参加者たちが優劣を競い合うゲームであり、コンペティションです。

『文化系のためのヒップホップ入門』 p.19より引用

 言うまでもないことですが「音楽ではない」というのはヒップホップらしいカマしも込みの表現であって、厳密にいえば「音楽であるだけでなくゲームでもある」と受け取るべきでしょう。この「ゲーム」の部分を競技に置き換えて、吹奏楽は「音楽であるだけでなく競技でもある」という出発点で書き出したのが『聴かずぎらいのための吹奏楽入門』なのです。

 

 そして「音楽であるだけでなく競技でもある」というコンセプトで実際に書き進めてみて、全体が見えてきてから「吹奏楽はフィギュアスケートに似ている」ということにも気付きました。もっといえば、「バレエがクラシック音楽、コンテンポラリーダンスが現代音楽だとすれば、フィギュアスケートにあたるのが吹奏楽である」と、そういう喩えができることに思い当たりました。

 フィギュアスケートには競技性から切り離された「エキシビション」や「アイスショー」などと呼ばれる部分もありますが、フィギュアスケートという分野がこれだけ盛り上がるようになったのは競技性なしには考えられません。それと同じことが吹奏楽にもいえるのです。コンクールなしで吹奏楽を語ること、もしくはコンクール以外の部分を中心に吹奏楽への入門をさせようとすることは、エキシビションやアイスショーを中心にフィギュアスケートの入門書を書くようなもので、それはどう考えてもおかしい。何故なら現場にいる人たちの実情や価値観と大きく乖離してしまうからです。少なくとも入門書とは呼べないものとなるでしょう。

 『文化系のためのヒップホップ入門』がヒップホップ文化内部の価値観を理解させてくれる本であったように、私たちの吹奏楽本は日本の吹奏楽文化内部の価値観を伝える本にしたい……。こうした考えは、そもそも出版社の依頼に由来するものなのです。

 だから、そもそも吹奏楽の外の世界にいる人が楽しめる・評価できる吹奏楽曲を紹介した本ではありません! そうではなく日本の吹奏楽の世界で(現在 or かつて)人気のある曲がどういう理由で、名曲として受容されているかを吹奏楽は「聴かずぎらい」だったという方に伝える本なのです。

 

理由2)描きたかったのは創作史ではなく受容史

 そして「日本の吹奏楽文化内部の価値観」を伝えるためには、音楽の歴史を語った本でよくあるような(著者の価値観によって取捨選択された)作曲家の活躍時期と作品の創作年代に沿って、おおよそ時系列で並べていくやり方は不適当だと考えました。伝えたいのは、私と漆畑が吹奏楽をどう捉えているかということではなく、日本の吹奏楽シーンが築いてきた価値観。それをどうやれば可視化出来るのか? 厳密にいえば不可能にも近いことであることは分かりつつも、「受容史」を目指すことで意図したものに近づけるのではないかと考えました。

 そこで、取り上げる作曲家と作品の取捨選択をする際に、過去の演奏実績を重視したのです。ただし演奏会ベースで、それをやることはデータが少なすぎて(ある程度網羅することが)難しい。それに対し、コンクール(特に上位の大会)であればある程度データベース化されているので、データをもとに時代ごとの流行り廃りをある程度まで、追うことが出来ると考えました。コンクールのなかでも上位の大会(特に全国大会)を重視することについては、上位の大会ほど人目に触れるため、取り上げられた楽曲を他の団体が来年以降に演奏したいと考える……そういった影響が大きいわけです。そういう観点から、コンクールのなかで全国大会などの上位大会を重視するのも不適切ではないと判断しました。

 

反論)もはや「吹奏楽」と「クラシック音楽&現代音楽」は異なるジャンルなのである。

 最後に、コンクールを軸にして吹奏楽の本を書いた理由ではなく、批判への反論をひとつ。批判的な意見を寄せてくださった方々全員というわけではないが、そのうち多くの割合にみられたのが、吹奏楽の専門作曲家ではなく、クラシック音楽や現代音楽に分類される作曲家を高く評価し、コンクールで演奏されずらい、そうした作曲家の作品をメインに取り扱うべきであるという主張が、程度の差はあれ、かなり見られた。

 そうした人々にむけて反論したいのは、確かに吹奏楽編成の作品のなかにはクラシック音楽や現代音楽として評価できる楽曲もある。だが、それらを評価する基準をその他すべての吹奏楽曲を評価する基準にするべきではない。あなたがしようとしていることは、元植民地に対して旧宗主国の価値観を今も押し付けていることに近しい。そのことにいい加減気付くべきだ

 どんな音楽ジャンルにも、ジャンルごとに大事にされている価値観があり、それは他ジャンルの愛好家・専門家から蹂躙されるいわれはないのである。

 『聴かずぎらいのための吹奏楽入門』で、繰り返しクラシック音楽&現代音楽との違いを執拗に語り続けているのは、このことを伝えたかったからなのだ。

 


サポートいただいたお金は、新しいnoteへの投稿のために大切に使わせていただきます!