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ジャズとクラシックの100年【第1回】1920-30年代:ジャズのサウンドを取り入れる作曲家たち

1917年2月26日——オリジナル・ディキシーランド・ジャス・バンドという白人バンドによって「ディキシー・ジャス・バンド・ワンステップ」「ライヴリー・ステーブル・ブルース」の2曲がニューヨークで録音され、翌月の3月7日にレコードが発売された。これが一般的に、ジャズを名乗った音楽の最初のレコーディングとされている(ただしジャ“ズ”と、濁った名称が定着するのはもう少し後の話)。

つまり、それから100年後の2017年は、ジャズにとって節目の記念年。実際に、世界各国で「ジャズ100年」と銘打ったイベントの開催や書籍の出版などが相次いだ。そんなジャズ関係者にとってお祭りの1年が終わった2018年に、今度は別の角度から100年の歴史を振り返ってみたい。クラシックの視点を通して、ジャズの歴史を眺め返してみるのだ。

時に「かっちりとしたクラシック」と「自由なジャズ」といった対立軸で、全く異なる音楽として語られてしまうこともあるのだが、実際はクラシックとジャズには密接な関わりがあり、あらゆる時代で互いに刺激を与えあってきた経緯がある。これから何回かに分けて、そんな歴史をハイライトで駆け巡りながら、「クラシックでありジャズでもある」あるいは「ジャズでもクラシックでもない」音楽をご紹介していこう。

——「先駆者」としてのエルヴィン・シュルホフ(1894-1942)とダリウス・ミヨー(1892-1974)

「ジャズ×クラシック」を代表する楽曲といえば、1924年に初演されたジョージ・ガーシュウィン作曲の《ラプソディ・イン・ブルー》があまりにも有名だ。ところが、これ以前にもクラシック音楽にジャズを取り込んだ作曲家たちがいる。まずはチェコのエルヴィン・シュルホフをご紹介しよう。

ときに、歴史上はじめてジャズを取り入れた作曲家として紹介されることもあるシュルホフは1910年代後半、当時最先端の芸術運動であったダダイズムに加担し、既存の伝統的な価値観を打ち壊した音楽を創ろうとしていた作曲家である。そんな折、シュルホフに刺激を与えたのが20世紀最大の風刺画家とも称されるジョージ・グロスが収集していたジャズのレコードであった。

1919年に作曲されたシュルホフの《5つの音画》の第4曲「ワンステップ」と、前述した最初のジャズ録音である「ディキシー・ジャス・バンド・ワンステップ」を聴き比べてみると、リズムの面で共通する要素があることに気付かされる。

しかしながら、今日の感覚でいえば《5つの音画》のどの楽曲もジャズ的に聴こえないかもしれない。それは、現在でいうジャズと当時のジャズという言葉が指し示すものが違ったから……という問題もあるのだが、話がややこしくなるのでそれは一旦脇に置いておこう。

1921年に作曲された室内オーケストラのための組曲で初めて「Jazz」というタイトルが用いられるようになる。しかし、サウンドがよりジャズらしくなるのはその翌年に作曲されたピアノソロのための《パルティータ》(1922)からだ。第8曲「シミー=ジャズ」を聴いてみよう。

シミーというのは、下着のシュミーズを語源とするセクシーなダンスのことで、1920年代のジャズに合わせて踊られ、その後ブームとなるチャールストンの先駆けとなった[註1]。左右に激しく揺れ動くダンスに合わせて、音楽的には跳ねるようなリズムが用いられているのがシミーの特徴——なのだが、実はこれが後のジャズにおける「スウィング」のリズムと共通しているのだ。

また他に、メロディやハーモニーにも「ブルーノート」や「セブンスコード」といったその後のジャズの基本となるような要素が見受けられるため、現在の我々が聴いてもジャズらしさを感じられる1曲となっている。


同時期にフランスでも、ジャズを取り入れようとする動きがあった。その筆頭格が「フランス六人組」のひとりとして著名なダリウス・ミヨーである。

ミヨーとジャズの出会いは1920年、ロンドンでのこと。当時既にブラジルの音楽を取り入れるなど、自分と異なる世界に属する音楽を貪欲に学びとっていたミヨーは、ロンドン滞在中に偶然出会ったビリー・アーノルド楽団 Billy Arnold's Novelty Jazz Bandの演奏に魅了される(※まさにこのロンドンでの録音が残されているので、ご興味ある方はこちらのサイトでご確認されたし)。

そうしてミヨーが作曲したのは《やわらかいキャラメル(シミー)》(1920)というピアノ小品であった。ここでもシミーというダンスの名前が付けられている通り、跳ねるようなリズムが特徴的である。

そして1922年、ミヨーはいよいよジャズが生まれたアメリカ合衆国を訪れる。「ウィスパリング」(1920)という楽曲で200万枚以上のレコードを売り上げ、ダンスホールで人気を席巻していたポール・ホワイトマン楽団など、様々なビッグバンドを聴いたようだ。それに加え、19世紀末にはドヴォルザークも魅了した黒人霊歌にも触れることで、ジャズに限らない黒人文化への理解を深めていく。

その成果が発揮されたのがバレエ音楽《世界の創造》(1923)。幕が開いた後の第1曲「創造前のカオス」では、ジャズのサウンドとクラシックの作曲技法であるフーガを見事に結びつけているし、第4曲「欲望」の後半部では当時のジャズの賑やかさを巧みに取り入れている。

——「代名詞」としてのジョージ・ガーシュウィン(1898-1937)

こうしてヨーロッパの作曲家たちがジャズへの意識を強めていくさなか、アメリカ人の作曲家たちも本格的にジャズを取り入れ始める。まずは1921年にアーロン・コープランド(1900-1990)が《3つのムード》の第3曲「ジャジー」というピアノ曲を作曲。その後も、ジャズを意識した作品を手がけているが、次第にジャズとの距離を置くようになる。より重要な作曲家は、やはりガーシュウィンである。

ガーシュウィンにとって初のヒット作「スワニー」(1919)と、「アイル・ビルド・ア・ステアウェイ・トゥ・パラダイス(私は楽園への階段を建てる)」(1922)を聴き比べてみよう。後者には、はっきりとジャズ的なサウンドが加わったことを聴き取ることが出来るだろう。彼も時代に呼応してジャズのサウンドを取り入れた作曲家のひとりなのである。

そして、この「アイル・ビルド・ア・ステアウェイ・トゥ・パラダイス」をミュージカルのナンバーとして演奏したのがポール・ホワイトマン楽団であり、ガーシュウィンの才能に目をつけたホワイトマンが委嘱して生まれたのが《ラプソディ・イン・ブルー》(1924)なのである。

《ラプソディ・イン・ブルー》の成功により、それまでヒットソング・メーカーであり、ミュージカルの作曲家であったガーシュウィンは、クラシック音楽の作曲家という新たな可能性を見い出されることとなる。その後は1937年に38歳で早逝するまで《ピアノ協奏曲 ヘ調》(1925)交響詩《パリのアメリカ人》(1928)オペラ《ポーギーとベス》(1935)などといった名作を書き続け、シンフォニック・ジャズ(≒オーケストラで演奏されるジャズのこと)の代名詞というポジションをほぼ独占するまでになった。

こうして1920年代から30年代にかけて、前述した作曲家だけでなく数多くの人々たちがジャズのサウンドを取り入れた作品を手がけるようになっていく。少しだけ例を挙げてみよう……

ラヴェル(1875-1937):ヴァイオリン・ソナタ(1923-7)、ピアノ協奏曲(1929–31)
・ストラヴィンスキー(1882-1971):ジャズ・アンサンブルのための前奏曲(1936-7)
アンタイル(1900-59):ジャズ・ソナタ(1922or23)、ジャズ交響曲(1925)
・クルシェネク(1900-91):オペラ《ジョニーは弾き始める》(1925-26)
・ルロイ・アンダーソン(1908-75):ジャズ・レガート(1936)、ジャズ・ピチカート(1938)

……この通り、作品の実例を挙げだしていけばキリがない。

1940年代が近づくと、今度はジャズ・ミュージシャンがクラシックの方に歩み寄ってくるのだが、それはまた次のお話。

👉【第2回】1940-50年代:ジャズ・ミュージシャンからのアプローチ


▶ 脚註

*註1:シミーを「1920年代アメリカのダンスブームの先駆け」と表現するのは適切ではない(※ダンスブーム自体は、1910年代にラグタイム等に乗せて踊られたフォックス・トロットから)というご指摘をいただいたため、一部修正しました(2018.5.17.)。

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