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幼少期①

幼少期、思い出したくもない小さな頃。


自分の小さい頃の記憶など、果たしてどれくらいの人が覚えているのだろうか。



母が離婚して2人で暮らしていた最初のアパートで、私の居場所は押入れの中だった。


ここなら大丈夫、ちょっと狭くて暗くて怖いけれど、それより怖い母の顔色を見ずに済む。
物を投げられても押入れのドアに当たって、私には直接当たらない、セーフだ。


そんな身を守る術を覚えたのが保育園、おそらく4歳か5歳の頃。


母の機嫌が悪いと容赦なく殴られ蹴られた、そしたら押入れの中に逃げ込む。押入れの外からドアをバンっと叩かれ、閉じ込められたらそこはもう暗黒の世界。狭くて怖くて仕方がなかったけれど、頬の痛みに比べればマシだ。


ほとぼりがさめると、私を呼ぶ母の声が聞こえる。そして夕食をとり、2人で寝る、その繰り返し。


その頃の母は離婚のストレスからか、夜になると来る日も来る日も気が狂ったようにスポンジケーキを焼いた、1ヶ月に15ホール焼いた月もあった、クッキーを焼いたりもする。生クリームは毎日買えないので、卵白をホイップ代わりにしていた。
夜中になると、できたよ!と叩き起こされ、アツアツの紅茶と一緒に胃に流し込む。案の定翌朝私は布団を濡らしていた。
すると、昨日の晩何飲んだんだ!と怒号が飛んできて、それと同時に自分が吹き飛んだ。


後から考えると、幼児に夜中たらふく紅茶とお手製のケーキやクッキーを与えて寝かすと、お漏らしをしてしまうのは至極当然だろう。


でも一緒に寝てくれるのは母しかいない。泣きながら母の千房のあたりに顔を埋める。もう保育園の年頃なのに乳離れできない。母は人が変わったように優しく私に頬擦りをし、私を抱きしめて寝る。
それが母と私の毎晩の儀式であった。それでも嬉しかったし幸せだった。
だってそれしか知らないから。


いつも保育園では『レナちゃんは顔が青い』と言われていた。単にいつも頬が青ざめていたか内出血でもしていたのだろう。
そんな事が繰り返され、祖父母の済む隣町へ引っ越す事になった。


本当にそれ以外の記憶が全くといっていいほどないのだ。





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