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実話怪談 #41 「あの音:後編」

 野池で釣りをしてから約二週間後のことだった。
 Sさんはマンションの四階に、両親と姉に四人で住んでいる。昼食を終えてまもなくの午後一時半頃、Sさんはそのベランダから飛び降りた。津村さんがそれを知ったのはことがあった翌日で、仕事帰りにSさんが入院している病院に向かった。
 
 病室は六階にあった。
 Sさんの母親から電話で聞いてはいたが、Sさんはあちこちを骨折したものの、命には別状はないとのことだった。また、そこそこ重症のわりには案外元気で、会話するにはこれといって支障はないという。

 実際にSさんを見舞うとそのとおりで、頭や手足に包帯を巻いた姿は痛々しかったものの、話し声はいつもと変わらないように思えた。
「ベランダの下に植え込みがあってな、それがクッションになったんだ。それで死なずに済んだ」
「そうか……」
 津村さんは短く応じると、病床で横になっているSさんを見つめた。
 死なずに済んだのは素直によかったと思うが、ベランダから飛び降りた理由が気になっていた。
 普通に考えれば自殺だ。自殺するようなタイプには見えないが、Sさんにはなにか悩みがあったのだろうか。だとしたら、津村さんに相談してほしかった。友達がひとりで悩んで自殺したなんて、とても悔しくて悲しいことだった。

 すると、津村さんの気持ちを察したように、Sさんが真面目な顔をして告げてきた。
「言っとくけどな、自殺じゃないぞ」
 それを聞いた津村さんは少し安堵した。だが、またすぐに不安に苛まれた。Sさんが奇妙なことを言いだしたからだった。

「あの音がずっと聞こえていたんだ。野池で聞こえたカアァァンって音が……」
 Sさんの話によると、釣りをした日からあの甲高い音が聞こえ続けていたそうだ。津村さんには黙ってはいたものの、帰りにラーメン屋に寄ったときも、音がずっと聞こえていたという。

 その音はSさんにしか聞こえていないようで、日を追うごとにだんだん大きくなっていった。ここ最近は耳もとで鳴っているかのように、はっきりと聞こえるようになっていた。
 Sさんは得体の知れない音が恐ろしくて仕方なかった。音に追いかけられているような、そんな気にもなっていたそうだ。

「あの日は特に音が大きくてな、これは逃げないとまずいと思ったんだ。音のしないほうに逃げていたつもりだったんだが、気づくとベランダから飛び降りていた」

 Sさんの話の内容はまともとは思えなかった。Sさんにしか聞こえない音というのも、その音に追いかけられているというのも、異常ともいえるおかしな話だ。
 自殺ではなかったとしても、精神的に不安定なのではないか。津村さんはそんな不安に苛まれた。

 だが、さらに話を続けたSさんは、存外に穏やかな顔をしていた。
「けど、もうあの音は聞こえない。そもそも俺しか気こえない音って、そんなことがあるわけないよな。一時的な耳鳴りだったかもって、今はそう思っているんだ。最近、仕事が忙しくてストレスが溜まっていた。ストレスで耳鳴りが起きることもあるみたいだな」
 津村さんの目には、Sさんのようすがいたって健全に思えた。ベランダから飛び降りたときは、精神的に不安定だったかもしれない。しかし、今は精神的に落ち着いており、思考が正常に働いているようだ。

 目の前のSさんを見ている限り、ベランダから飛び降りるような、そんな行為にはもう及ばない気がする。安心してもいいのかもしれない。
 津村さんはそう思惟しつつSさんに応じた。
「なるほど、耳鳴りか……」
「まあ、俺の勝手な思いこみだから、根拠なんてないんだけどな。でも、俺にしか聞こえない音っていうのよりは現実的だろ?」
 そう言ったSさんはすっきりとした顔をしていた。包帯だらけになっているが、いつもどおりのSさんだ。やはりもう安心してもいいようだ。

 ほっとした津村さんは、しばらくSさんと雑談をしてから、「また、くるわ」と告げて病室をあとにした。

 それからSさんの怪我は、日に日に回復していった。医師の話によると後遺症が残る可能性も低いそうだ。津村さんもSさんの家族も、元気になってよかったと、心から安堵していた。

 ところが、もうすぐ退院するという頃に、Sさんが六階の病室から飛び降りた。
 同じ病室にいた入院患者の話では、昼の一時過ぎのことだったらしい。Sさんは突然奇声をあげると、病室の窓を開け放って飛び降りた。
 今度は落ちた場所が駐車場だったため、Sさんは全身を強打して亡くなった。ほとんど即死状態だったらしい。

 また、Sさんが病室から飛び降りる少し前に、看護師がSさんの呟きを聞いたそうだ。
「音が聞こえる……」
 Sさんは両手で耳を塞ぎつつ、そう呟いていたのだという。

     (了)


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