実話怪談 #40 「あの音:前編」
二十代後半の男性、津村さんの談である。
その日、津村さんは趣味のブラックバス釣りに出かけた。同行者は大学時代からの友人であり、釣り仲間でもあるSさんだった。
「新しい釣り場を開拓しようぜ」
Sさんがそんなことを言い出したため、釣り場に選んだのははじめての野池だった。オンラインマップを使って山の中腹に見つけたのである。
野池の近くに着いたのは昼過ぎだった。すると、雑草にびっしりと覆われているものの、車を駐車できそうなスペースがあった。
津村さんはそこにワンボックスを停めて、Sさんと共に車の外に出た。鬱蒼と生い茂った樹々が空を隠しているうえに天候は曇りだ。野池の周辺はやけにどんよりと暗かった。
野池には釣れそうな雰囲気があるものの、釣りをしている人影はどこにもなかった。雰囲気だけで実際は釣れない場所かもしれない。あるいは釣り人の少ない穴場なのかもしれない。
「釣れたらいいけどなあ」
Sさんはわくわくした顔でそう言った。
足もとはどこもぬかるんでいた。生い茂った周囲の樹々が陽光をさえぎっているせいかもしれない。津村さんたちは足を取られないよう注意しながら、野池の周辺を適当に歩いてまわった。ほどなくして竿を振れそうな、少し開けた場所を見つけた。
「まずは活性のいいバス狙いで、トップを攻めてみるか」
Sさんは水面を進むルアーを選択すると、それをラインに結んで投げはじめた。
「じゃあ俺はワームでボトムを狙ってみるわ」
津村さんはSさんとは反対に、ワームで池の底をさぐることにした。ワームの色は曇り空や、池の濁りを考慮して、派手目の蛍光イエローにした。
そうやって釣りをはじめてすぐ、津村さんはある音に気がついた。
――カアァァン
木材同士を叩きつけるような甲高い音だった。
背後に雑木林が広がっており、そのどこかで鳴った音らしい。
――カアァァン
音がしたのは一回きりではなかった。
数分おきに背後の雑木林で同じ音が響いた。
――カアァァン
どうやら、Sさんもその音に気づいたようだ。後ろを振り返りつつ、津村さんに尋ねてきた。
「なんだ、この音? なにがカアァァンって鳴ってんだ?」
津村さんも後ろをちらりと振り返り、それからSさんに向き直って応じた。
「さあ……なんの音だろうな」
Sさんはしばらく雑木林を見つめていたが、ふいに前に向き直ると、またルアーを投げはじめた。
津村さんも同様に釣りを再開した。
周囲に自然が残っているところで釣りをしていると、奇妙な音が聞こえることはしばしばある。動物や鳥など鳴き声なのか、枯れた樹などが軋む音なのか、正体不明の音がふと耳に届く。
奇妙な音が聞こえると気にはなるが、気になって仕方ないわけでもない。なにか鳴っているなあ……と、そんな程度のことである。
さっきから聞こえるカアァァンという音もそうだった。釣行中によく聞こえる奇妙な音のひとつであって、ちょっと気になる程度のことだった。
音はそれから十五分ほど鳴り続けていたが、そのあとはまったく聞こえなくなった。周囲は相変わらずどんよりと暗い。雲の厚みが増したように思えて、雨が降らないか心配になった。
さいわい雨には降られなかったが、釣果はまったくあがらなかった。津村さんもSさんも手を替え品を替え野池を攻めたが、あたりすらないまま陽が落ちはじめる時間になった。
Sさんが野池を見つめながらぼそぼそと呟いた。
「ここにはバスがいないのかもな……」
「かもな……」
津村さんが同意すると、Sさんが尋ねてきた。
「そろそろ帰るか?」
「そうだな。暗くなってきたしな……」
そこで釣行は終了となり、津村さんたちは車に戻った。
ワンボックスのバックドアを開けて竿を片付けていると、Sさんが野池をちらりと振り返って言った。
「そういや、ずっと鳴ってたよな、あの音」
「音って?」
「カアァァンって音だよ」
Sさんに言われて、津村さんはその音のことを思いだした。確かに釣りの最中に甲高い音が鳴っていたが、ずっとは鳴っていなかったはずだ。
「最初にちょっと鳴っていただけで、すぐに聞こえなくなっただろう?」
「いや、ずっと後ろで鳴っていたぞ」
「え、そうか……」
津村さんは首を傾げた。
「鳴ってたか?」
「鳴ってた」
Sさんにきっぱり断言されても、やはり津村さんにはその記憶はない。しかし、鳴っていようが鳴っていまいが、別にどっちでもいいことだった。
「そうか。鳴ってたか」
津村さんは竿を片付けながら適当に応じた。
車に乗り込み、野池を離れた。山道をしばらくおりると、周囲が開けて国道に出た。国道沿いに飲食店がいくつか並んでおり、ド派手は電飾看板をぎらつかせていた。
それを目にした津村さんは、急に空腹感を覚えた。
「腹減ったな。飯でも食って帰るか」
助手席に向かって尋ねると、Sさんは後ろを振り返っていた。
どうやら後ろになにかあるらしい。
「なにしてんだ。うしろになにかあるのか?」
津村さんが運転しつつ尋ねると、Sさんは前に向き直って答えた。
「音が聞こえた気がしたんだ。でも、きっと気のせいだな」
「なにが気のせいなんだ?」
「いや、カアァァンって音がな、聞こえた気がしたんだ」
Sさんはどこか神妙な声でこう続けた。
「あの音が聞こえるはずない……」
そのあとにSさんが音に言及することはなかった。津村さんはもう一度「飯を食おう」とSさんを誘い、適当なラーメン屋を見つけて腹を満たした。
それからの再び車に乗りこんで帰路についたのだが、特にSさんに変わったようすはないように思えた。
しかし――。
(後編に続く)
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