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実話怪談 #44 「倦怠感」

 これは三十代前半の女性、木下さんのだんである。
 
 木下さんはスタッフが五人いるサロンで、美容師として三年前から働いている。身を切るような冷たい風が吹く十二月の半ばに、五十がらみと思われる痩身の女性を担当した。数日前にオンラインで予約が入った新規の客だった。

 女性は予約時間の午後四時ぴったりに美容院にやってきた。希望のメニューはカットと白髪染めだった。
 高圧的だったり嫌な態度を取るような客でなかったが、女性はとにかくどんよりと暗くて無口だった。木下さんがなにを話しかけてみても、「ああ……」や「はい……」などと、低い声でぽつりとしか返してこない。
 はじめてで緊張しているのかもとも考えたが、おそらくもともとの性格がそうなのだろう。他人ひととかかわるのが苦手なのか、あるいは他人ひととかかわるが面倒なのか。

 いずれにせよ、こういう性格の客を担当することになった場合、無理に話しかけても余計に気まずくなるだけだ。木下さんは早々に会話を諦めて、黙々もくもくとハサミを動かしていった。 

 そうやってカットを進めていたとき、ふと木下さんは女性の視線を感じた。女性の前の壁には大型の鏡がかけてある。その鏡越しに女性が木下さんを見ていたのだ。
 しかし、木下さんと目が合うと、女性は視線をすっと逸らした。
 その後も同じようなことが何度かあった。視線を感じて鏡に目を向けると女性がこちらを見ている。しかし、木下さんと目が合うと視線をすっと逸す。

(いったい、なに……)
 木下さんは不快に思いながらも、カットを済ませて白髪染めも終了した。そして、レジが設置してあるカウンターテーブルに移動した。
 自分が担当したお客さまは料金の支払いまで責任を持って行う。木下さんが務めている美容院は、そういう方針で運営していた。

「お疲れさまでした。カットと白髪染めで一万八百円になります」
 木下さんは女性から現金を受け取ってお釣りを返した。

 そのときだった。
「どこでもいいです。神社に参拝してください……」
 女性が唐突にそう言った。
「え、神社……? ……ですか?」
 木下さんが怪訝に思いつつ応じると、女性は暗い声でぶつぶつと言った。
「神社の境内は神域になっています……参拝するだけで憑きものが落ちます。なるべく早めに参拝してください……」
「あの、なにをおっしゃてるんですか……」
「身体にだるさがあるはずです……よくないものに憑かれているからです……」
 そうして女性は猫背の背中をこちらに向けて、美容院からすうっと出ていく。
「え……」
 木下さんは反射的に女性を追いかけ、美容院の店先で頭をさげた。
「ありがとうございました」
 女性は一度もこちらを振り返らずに、向こうに歩いていった。
 店の中に戻った木下さんは、床に落ちた毛を掃除した。そうしながら女性が言ったことを心の中で反芻した。

 ――身体にだるさがあるはずです……よくないものに憑かれているからです……。

 実はここ最近の木下さんは、確かに倦怠感を覚えていた。そこまでひどくはないものの、背中や首が重く感じられ、そのせいで寝つきが悪い日もあった。

 だからといって、憑かれているなんて話はさすがに信じられなかった。憑かれているのではなく、疲れているのだろう。美容師は思いのほか体力のいる仕事で、疲労が蓄積していても不思議ではない。この倦怠感は疲労によるものに違いない。
 神社に出向いて参拝するよりも、マッサージなどで身体からだをケアしてもらったほうがいい。

 だが、まもなくして木下さんは偶然にも神社を参拝することになった。元旦に友人と初詣にいったのだ。拝殿で手を合わせたあとに、おみくじを引くと中吉だった。
 神社からの帰り道、木下さんはふと気がついた。倦怠感が完全になくなっている。身体からだがこれまでになく軽く、心なしか視界もクリアになっている気がした。

 その日以降はときどき倦怠感を覚えるものの、寝つきが悪くなるまでには至らなかった。朝までゆっくり眠れば倦怠感は解消される。初詣にいった日を境にして、明らかに体調が良くなったのだ。

 それからの木下さんは憑かれているという話を、半信半疑ながら受け入れるようになった。機会があればあの女性に詳しい話を聞きたいとも思っている。

 また、倦怠感を訴える友人や知人がいると、神社への参拝をすすめているそうだ。なにも変わらないという友人や知人がいる一方で、身体が軽くなったとと聞くことがちらほらあるという。

     (了)


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