見出し画像

『人はいかに学ぶか』―学習論的転回―

 学習論というテーマは日々学問と向き合う大学院生のみならず、現場で働きだした同期の先生たち、さらに一般企業に就職した人やスポーツ選手にもホットなテーマといえないだろうか。「お勉強」は学校で無理やりさせられるものかもしれないが、「学習」は仕事においても、スポーツ現場でも、日常生活においてもつきまとう。

 以下は、学習論における古典的名著である稲垣佳世子・波多野誼余夫『人はいかに学ぶか』日常的認知の世界 中央公論社、1989年の内容をまとめたものである。

 …授業のレポートに合わせた書式なので文字数が多いのですが、興味のあるひとはぜひ読んでみてください。

これはその本のリンクです。

――――――――

 何か問題行動が起こったときに、原因を当事者の子どもだけに帰納しない。その子を取り巻く環境、社会的文脈を見ることの必要性を強く感じた。本書で紹介される次のような実験結果がそれを分かりやすく示している。

  コールたちは、社会的な場面がちがうと、同じ少年がまるで別の少年のように行動することがありうると報告している。もう少し具体的にいうと、ほかの子どもたちの援助をあてにすることが許容される放課後の料理クラブでの活動と、自分ひとりで問題と取り組まなければならない教室での学習場面での活動が大きく異なり、後者では「学習障害児」といったレッテルさえはられているのに、前者では、「イキイキと率先して活動している有能なメンバー」として認められている、といったほどのちがいなのである。(p.121)

 つまりどういうことが言えるだろうか。問題行動の原因を仮に「問題行動的因子」として置いて、問題行動を起こす子供のなかにそれがあると信じ、それさえ封じ込めることができれば上手くいくのに、と考えるのが旧来の学習者観に基づいた対応の仕方であろう。しかし、引用した報告結果に基づけばそれはおかしい。その学習観によるならば、どの場面においても問題児は問題児でなければならない。報告結果は全く逆の結論を示唆する。周りの環境こそが彼/彼女を問題児にさせてしまっているのである。本書で私が強く印象に残ったのはこの発想の転回である。
 
 以下各章ごとに簡単に本書の内容を整理しよう。

 第1章では生物学的観点からヒトが「すぐれた学習能力がほぼ一生にわたって維持される」(p.4)種であると特徴づける。これはすなわち、勉強嫌いあるいは学習嫌いというのは本能に逆らった不自然な行動であることを意味している。なぜそのような不自然な行動に至ってしまうのかといえば、それは周りの環境の問題に帰結する。
 
 第2章ではその学びに向かう環境についての具体的な説明がされている。著者いわく、「現実的必要をみたすためであれば、人びとが能動的に学ぼうとするのは、ある意味では当然である」(p.22)。あなたが勉強を進められない原因は、あなたが怠惰であるから、もしくはダメな人間だから、というわけではなく、置かれている環境に問題があるといえるかもしれない。
 
 第3章でも、さまざまな心理学的実験の事例を紹介しながら、人間は放っておくと怠ける怠け者であるという伝統的な学習観から離れ、能動的な学習者である人間の側面を強調する。そして本章ではそれから一歩進み、人間は環境から学ぶだけではなくそこから深い理解(意味)を見出そうとするものであると主張される。「人間、とくに年長の子どもや成人における知的好奇心は、他の高等動物のそれとはちがってより深い(意味)を求めるところに特徴がある。つまり人間は、環境との情報的相互交渉を能動的に行って個々の知識を求める、というのにとどまらない」(p.46)のである。
 
 第4章ではヒトは特に、言語や数の獲得に関して有能な学び手であると述べられ、その理由としてそもそも生物学的に「ヒトが言語や数を効率的に学ぶようプログラムされていること、その基盤としては生得的な認知的制約が存在し、これによって速やかにもっともらしい解釈や仮設へと到達しうることが明らかになった」(p.82)としている。つまり、生まれながらに上手く学習することができる素地が人間にはあるというのである。
 
 ここから第5章、第6章では話が文化に敷衍される。つまり、社会的に学習というものは規定されているという。「人びとが日常生活で示す有能さの多くは、文化によって支えられている、といってよい。その有力な仕組みのひとつは、文化が、課題をできるだけ遂行しやすくするよう、外的な制約条件(さまざまなやり方をあらかじめ排除することによって、可能なやり方の範囲を限定し、適切なやり方をとりやすくする条件)を設定することである。具体的には施設や道具の提供という形をとる」(p.84)と述べる。文化、そして施設や道具という「他者」から制約される条件が学習を規定するならば、文字通りの「他者」すなわち共に学ぶ人間からはどう学習者は影響を受けるのだろうか。

 第7章では、日常生活における学習を効果的に促進する力として、徒弟と親方の関係や知的好奇心を高めるやりとりについて取り上げられる。「人々が有能な学び手であるためには、他者の存在が必要なこと、その他者とは、関心を共有するが視点の異なる人がよく、必ずしも知識のより豊富な人であるには及ばないことが、とくに注目される」(p.134)とまとめられる。

 ここまで章ごとに順序立てて本書の内容を追ってきた。整理してきたからこそ分かることだが、「学習」についての本であるのに学習者自身についての文章がほとんどない。まずそもそものヒトの生物学的特徴が整理され伝統的な学習観を否定し、その後「学習」における生得的に存在する制約条件、文化的に存在する制約条件、共に学習する他者による制約条件が語られるのみである。

 ここでようやく冒頭で述べた内容に戻ることができる。つまり学習が上手く進まないときは、学習者の周りの環境に何かしら構造的な原因が潜んでいる可能性が高い。これは物事を構造的に見る構造主義的な発想であるといえる。学習の良し悪しの原因を全て学習者自身に帰結してしまうのはあまりにもナイーブな発想であり、そこまで全て人間の脳による判断で物事が進められているわけではない。ある程度は構造によって無意識のうちに形づくられてきてしまっているのだ。だとするならば、その構造を規定する役割を担っている教師に大きな期待が寄せられる。本書の最終部では「どんな考え方をとる場合もそうだが、よい実践のためには、教え手の創造力が決定的に重要である」(p.192)とまとめられる。

 だがしかし、プレッシャーに感じる必要はない。「子どもが能動的で有能な学び手であるのと同様に、教師もまた能動的で有能である」(p193)と私たちは期待することができるからである。

 子ども信頼するのと同じように、自分を信頼することが必要である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?