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クリスマスプレッシャーの正体


今日は12月25日、クリスマスだ。

ところで、日本人はいつからこんなにクリスマスを祝うようになったのだろう。完全に外来の祝祭であるにもかかわらず、多くの人が日本のどの伝統的行事よりも大きな熱量を傾けている。国民の祝日ではないが、もはや一番の国民的イベントであると言っていい。そんな特殊な環境下で、日本のクリスマスはかなり独特な進化を遂げた。

フランスに住んでいた時、「日本でもノエル(フランス語でクリスマス)を祝うの?」とよく聞かれた。キリスト教文化圏に住んでいると頻繁に聞かれる定番の質問だ。この話題にはお決まりの展開があって、「日本でもクリスマスはやるが、宗教的要素はほぼない。」と答えると、フランス人はすぐに “Occidentalisé(西洋化)”と “Commercialisé(商業化)” の批判を始めるから聞いてあげる。

そして、「日本ではクリスマスにK F Cに行列ができる」、「クリスマスを恋人とではなく家族や友達と過ごすのは負け組」などの日本独自の文化を紹介して笑いで終える。僕の経験上、日本のクリスマス事情はかなりスベらない話なのでおすすめです。

一方、フランスでは、クリスマスは家族と過ごすのが主流だ。多くの大学や企業では12月25日から1月初頭までが冬のバカンスで、この期間は帰省し、家族水入らずの時間を過ごすパターンが多い。日本で言うお盆のような雰囲気だ。

日本の感覚だとびっくりするが、12月25日は殆どの店やレストランが閉まっており、それまでクリスマスムード満載で盛り上がっていた街がとても静かになる。僕は、昨年の冬をクリスマスマーケットで有名なフランスのストラスブールで過ごしたが、12月25日はかなり寂しいものだった。皆様も観光の際は気をつけてほしい。



さて、日本でも、フランスでも、ここアフリカでも、クリスマス共通のプレッシャーがある。それは「クリスマスは誰かと一緒に過ごさなければならない」ということだ。

恋人や家族と過ごせる場合はシンプルだが、それは叶わない場合はどうにかして25日の予定を埋めなければという謎のプレッシャーが発生する。

解決策としては、独り身の友達で集まってワイワイやる、なんらかのクリスマスイベントに参加するなどが相場だ。コロナ禍ではそれも難しい状況である。

あるいは、あえて自分から仕事を入れてしまう手もある。そうすれば一応、「クリスマスは仕事していました」と一種の自虐ネタができるし、クリスマスでも働く、献身的な態度は評価されるかも知れない。最低でも、一人でいることは避けられる。

ではなぜ、クリスマスの夜は一人で過ごしてはいけない気になるのか。


日本でTwitterが爆発的に普及した2010年代前半、SNS上で「クリぼっち」(クリスマスに一人ぼっち)という画期的な言葉が生み出された。これは、クリスマスに一人、晩酌や映画を観て寂しく過ごす写真をSNS上にアップして、ハッシュタグ「#クリぼっち」を付けて投稿するものだ(Twitterで検索してみたら今でもたくさんいてびっくり)。

このワードはすぐにクリスマスプレッシャーに苦しむ日本人のハートをガッツリ掴み、一時はワイドショーで取り上げられるほどに普及した。

この頃から日本人のSNSへの姿勢は独特で、いわば先見の明があったと言っていいかも知れない。陽の部分をこれでもかと言うほど誇張した、意識高い系やキラキラ系のセルフブランディングが好まれる欧米とは違い、日本では隠の部分を共有するような、いわば「共感系」のアカウントが早い段階から伸びを見せていた。

現実世界では本音を包み隠しがちな日本人が、感情の吐口や共感の場としての可能性をSNSに見出したのは今考えれば必然かも知れない。今もその傾向は健在だと思う。


結局のところ、クリスマスの夜を誰かと一緒に過ごしさなければという欲求は、一年に数時間しかないピンポイントな期間のストーリーを「特別なもの」として他人と共有したいという欲求だと言い換えることができるのではないか。

クリスマスの夜を一人で過ごすという何でもない事を、立派なイベントに昇華し、不特定多数と共有できるようにしたのだからSNSは凄い。



私は常夏のアフリカの某国に住んでいる。この国の気候は年中暖かく、快適だ。

ただ、高北緯の国から来た人間としては、やはりクリスマスだけは寒くてなんぼだと思ってしまう。Tシャツ短パンで過ごすクリスマスは、何かが足りない気がしてならないが、一つ利点があるとすれば、僕にとって、そして多くの日本人にとって真夏のクリスマスはそれだけで特別だ。

この特別な体験を誰かと共有したい。それが瞬時にできる時代だ。

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