見出し画像

フランス、ある春の日に静かな部屋で

【旅の意味は終わった後に生まれる】

音楽も映画も旅行も恋愛も人生も、長引けば長引くほど色褪せることを免れない。水々しさを失い、意味が損なわれる。かつて眩しく見えたものも、眼が慣れてしまえば、無数の光源の一つに過ぎなかったことに気付かされるものだ。

時と共に風化しゆく事象に、鮮度を蘇らせる方法は、だたひとつ。
「終わり」を設けることだ。死にゆく星が最期に光を放つように、終わりが近づけば全てが一旦蘇る。


いま、日の差し込む静かな部屋で、揺れる木々を眺めながらこれを書いている。

鳥たちの声や葉の擦れる音が、この部屋を優しく包み込んでいる。
どこかで、朝から付けっ放しのラジオがシャンソンを流している。
キッチンから同居人が焼いているシナモンロールの良い香りがする。
テラスにビーチチェアを出して日光浴をしている隣人が見える。
向かいの屋根で気持ちよさそうに猫が寝ている。
たまにお隣から笑い声が漏れてくる。
洗濯物を延ばすリズミカルな音が聞こえる。
石灰岩造りの白い壁と赤い瓦屋根とのコントラストが美しい。
中庭に子供用の自転車が放置されている。その周りには鳩がいる。
二軒先の家の屋根で、ボロボロになったポルトガルの国旗がはためいている(かつてポルトガル人が住んでいたらしい)。

まるで、僕の周りの世界だけがあまりに鈍過ぎて、地球の自転スピードについて行けず、見捨てられたような気さえしてくる。

新型コロナウイルスで世界中が燃えていることが嘘のように、ここからはその煙さえ見えてこない。もしかすると、世界はとうに燃え尽きて、この一角のみが残されていたとしてもおかしくない。


こんなふうな、長閑で何でもないフランス日和を、これまでに500回くらいは経験したはずなのに、今更、どうしようもなく愛おしく、その全てを、この耳で、眼で、鼻で、肌で感じ取り、記録したい衝動に駆られている僕である。


理由はもちろん、「終わり」がセットされたからに他ならない。

この夏から、アフリカに行くことが本格的に決定した。
もちろんコロナの状況次第で入国できないかもしれないけども、まあ、決定した。そもそも現在のフランス駐在は、来たるアフリカ転勤の準備期間のようなものだったので、兼ねてより分かっていた事ではあるが、いざ具体化すると気持ちも締まる。(アフリカのどこかは、仕事の関係上まだ伏せさせていただく)
そして、名残惜しくなる。


かくかくしかじかと言うことで、残された数ヶ月のボルドー生活を全力で満喫したい。さあ、果たしてできるだろうか。「神のみぞ」ならぬ「コロナのみぞ」知る所である。

(昨日、マクロン大統領が外出制限を5月11日まで延長すると発表したところだ。フランス最後の夏を心ゆくまでバカンスするためにも、コロナにはいち早く撤退していただきたいものだ。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?