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メコン川とムーンリバー

メコン川は遠目でも十分淀んでいたが、近くで見ると紙パックの安いカフェオレのように濃厚でとろりとしているように見えた。

茹だるような炎暑日に歩き続けた脚が限界を迎え、川辺に続く階段にバックパックをおろしその横に腰掛けた。

ちょうど、カンボジアからベトナムにどう入ろうか思案している節、プノンペンからメコン川を下りベトナムに入るクルーズ船が出ていると小耳に挟み、市街から程近い船着場を訪れていた。

いずれにせよ、この大河を一瞥しないことには旅を終えられないと思っていたし、そのまま国境を越えられるなら一石二鳥だった。

そこは川辺の景色が望める広場になっていて、ヒッピーのような格好をした白人や客を待つトゥクトゥクの運転手がほんの数人いて、ビールを飲むなりタバコを吹かすなりして過ごしていた。

日差しを遮るものは何も無いが、水面を経由した風が微かに涼しく、ちょっとした穴場らしかった。


僕は、コーラだったかビールだったかは覚えていないが、道端の売店で買った炭酸飲料の冷たさに全神経を集中させて、ぼんやりとしていたと思う。


そうしていると、「何か困ったことはないか?」といかにも東アジア人の平たい顔をした男が話しかけてきた。

伸びた髪を後ろで結い、お世辞にも綺麗とは言えない、いかにも貧乏旅行をしているといった風貌で、年は二十後半か三十そこらに見えた。手には年季の入ったアコースティックギターを持っていた。

少し驚いたが、「大丈夫。ありがとう。」と答えた気がする。

旅行中に話しかけてくる外国人は信用するなと言うのが鉄則なので、彼がそのまま僕の横に腰掛け話し始めた時、なんだか面倒だなと思った。

とは言え、せっかくの穴場をすぐに後にするのは惜しかったし、彼に何か狙いがあるようなら立ち去さればいいと思い、話を聞いていた。

聞けば、彼は韓国人で、母国で医者をしているが数年働いては休職し気の向くままに旅をして回っているとの由だった。

カンボジアにはすでに半年ほど滞在していて資金に不安があり、自転車の修理から観光ツアーの斡旋など半ば便利屋のような事をして小金を稼ぎ、滞在費の足しにしていると言っていた。

仮に本当に医者なら物価の安い国を数年旅行できるくらいには貯金できそうなものだと思ったが、韓国の医者の給料はびっくりするほど安いのかもしれないし、そもそも彼が本当の事を言っているかも疑わしいので、何も聞かないことにした。

一通りお互いの自己紹介を終え、僕が顧客ではないと分かると、彼は持っていたギターを弾き始めた。

どれも知らない曲だったが、のんびりとしたアルペジオが心地よかった。二、三曲弾き終えたところで馴染みのあるメロディーが聞こえてきた。

「ムーンリバー」と頭の中で呟いた。

弾き終えると、彼は僕にタバコとビールを一缶くれ、「何か弾いてみろ」と僕にギターを渡した。アコースティックギターで弾ける曲が浮かばず、高校のころ学園祭で演奏したスメルズ・ライク・テーン・スピリットのイントロを弾いた。

彼は「お前の音楽の好みが分かったよ」と笑った。

またしばらく、彼の演奏を聴きながら川を眺めていた。


不意に、「サンダルは持ってないのか?」と、どろどろになった僕のスニーカーを見て尋ねてきた。僕は「欲しいんだけど、荷物を増やしたくないから。」みたいな事を答えたと思う。

彼は「ちょっと待ってろ。」という言葉とギターを残してどこかへ消えてしまった。

僕はもらったビールをすすりながら、水面からは流れているかどうかも分からない濁った川を眺めていた。ここの魚は前が見えないのにどうやって餌を取るのだろう、などと考えていた気がする。


しばらくして彼が戻って来くると、僕にサンダルを渡した。

そのサンダルには、何を思ったか ¨Facebook¨とプリントされていた。何らかのブランドを模倣する気は初めから皆無で、ましてや本物であろうとする意思なんてとうの昔に放棄してしまったような代物で、可笑しかった。

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僕がいくらだったかと聞くと、彼は「気にするな。」と断った。

そして今度は、他愛も無い話を少ししながら、彼はまたギターを弾いた。


しばらくすると、僕が乗るらしい船が船着場に到着した。

木製の屋根が付いた10人ほど乗れそうな船にヤマハのエンジンを付けた簡素なもので、クルーズ船と言うより難民船と言った方が近いなと思った。

乗客は僕と中国人学生のバックパッカー二人のみだった。全員が乗り込むと、軽快なトルク音をあげながらメコン川の褐色の水面を掻き分けるように進み始めた。

彼はその場を動かずに手を振っていた。


気づけば日が暮れ始め、とろっとした水面で揺れる夕日が眩しかった。Tシャツだけでは少し肌寒かった。

僕は、少し頼りないクルーズ船に揺られながら、水路で国境を越え、新たな国に入ることへの高揚感に浸っていた。

足元の真新しいサンダルを見ると、少しチューニングのずれたムーンリバーを思い出して笑ってしまった。

そう言えば、彼とFacebookも交換してないことに気付いたが、まあいいやと思った。

もう8年前のことで、今では彼の名前も思い出せない。


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