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前厄

年が明けた。
とは言っても、人間が設定した暦というものが一つ更新されたというだけに過ぎない。
今日という日は昨日から連続しているのだし、ただカレンダーを新しくするだけの日に有り難みを感じるのはなんだか変な感じがする。
元旦に一人でぶつぶつと呟きながら、お雑煮用の蒲鉾を切る。

それにしても静か過ぎるので少し不思議に思っていると、右手で握る包丁がまるで生きているかのように動き、根元の部分が右掌に突き刺さった。
「……痛っ」
手から力が抜けてしまい落下した包丁は、見事に垂直に床に突き刺さった。

右手で包丁を持っているなら、普通は左手を怪我するものではないか。
包丁で怪我をするなら、普通は先端側で切るのではないか。
それが、刃の根本が包丁を握っている掌に突き刺さるなんて。
しかも床に突き刺さるなんて。
余りにもついていない日だ。

想像していたよりも深い傷にため息をつきながら絆創膏を貼る。
応急処置をして一息ついていると、壁のカレンダーに書かれた文字が目に止まった。
『今年の厄年一覧』

「前厄だ」
いやまさかそんな。
「今日という日は昨日から連続していて……」
「人間が設定した暦というものか更新されただけで……」
包丁のぬるりとしたあり得ない軌道を思い出す。
「うんうん、休みだからといって寝てばかりいるのは良くない。散歩にでも行こう。近くの神社なんかちょうど良いくらいの距離かもしれないな」
誰が聞くでもない言い訳を大きめの声で言う。
それくらい気味の悪さを感じていた。
まさかとは思うが、こんな日が一年続くのは御免だ。

ひいふう言いながら坂を登る。
大して歩いたわけではないのに、やけに疲れる。
さっきのことは、ただ身体が鈍っていたせいで力の入れ方を間違えただけなのかもしれない。

坂を登り切ったとき、信心の無い自分が初めて『厳か』という言葉の意味を知った気がした。
彩度の低い寂れた町の中に現れた朱の鳥居と、紫袴の男性。
「ご昇殿はこちらです」
全てを見透かしたような瞳をしている。
賽銭箱の置いてあるところからさらに階段を登り、奥に通された。
祭壇、狐の像、酒や果物などの沢山のお供え物。
詳しくなくても、ここが神様のための間だということが一目で理解できた。
これは大事になってきたぞと、背筋が伸びた。

祈りの言葉がまるで歌うように捧げられる。
鈴のように透き通った軽やかな声や洗練された振る舞いに対して、神様に仕えるってこういうことかと何となく感心した。
映像媒体でしか見たことのない、あのふぁさふぁさした白い紙のついた棒が頭の上で振られると、『祓われた』感覚が確かにあった。

「こちらは絶対に肌身離さずお持ちください」
先ほどの軽やかな声の主とは思えない低く重い声の忠告。
声も発することのできない緊張感にただ頷いてお守りを受け取り、一礼して鳥居をくぐった。

家に帰ると真っ先にカレンダーの前へ向かい、翌年の一月一日に赤丸を付ける。
今度は明確な意志を持って、あの神社へ向かうだろう。
「これが信心というものなのかもしれないな」
とふと思った。

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今の所平穏に暮らしています。
本厄だったらどうなっていたのか。
九割くらいは事実です。

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