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どこにいても自分らしく生きる、そのきっかけとしての海外

こんにちは、越です。

先日、日本へ一時帰国中に、海外在住歴のあるコシクロ(=僕の主宰するオンラインサロン)のメンバーと再会し、いろいろと話をする中で「日本は大好きだし、子育てのコスパいいし、割のいい仕事もたくさんあって、暮らしは最高だし、いいこと挙げたらキリがないけど、日本にいるとどこか息苦しさを感じるのはなぜだろう」という話になりました。

これはつい先日、一緒に帰国した嫁さんが、駅へと向かう通勤中と思われる人波を見かけたときに「なんか気が重くなっちゃうんだけど、なんでだろう」と言った言葉とも重なりました。

メンバーの一人は、端的に「画一性を無批判に受け入れている」ことへの違和感じゃないか?と表現していました。

語弊を恐れず僕なりにかみ砕くと、
 ・みんな真面目に働くのが当たり前
 ・自分の楽しさ・生き甲斐よりも他人を助け社会の役に立つことが大事
 ・その責任を果たすためなら自分を犠牲にしてでも務めるのは良いこと
 ・それが当然ですよね、なにか不思議なこと言ってます??
ということかと思いました。

タイでも同じように朝働きに向かう人たちはたくさん見るのですが、
 ・自分のオフィスで食べる朝食を買っていたり
 ・友人と楽しそうに出勤していたり
 ・家族?恋人?とスマホで話しながら歩いていたり

どこか「仕事しに来てるけど、自分の人生が第一で、それの妨げになるなら仕事は二の次で対応します」的な雰囲気を感じます。一方日本では「今日も仕事第一で出勤しました。しんどくても務めを果たすのが当たり前ですから」という具合。

これは超極端で先入観も多分にあるかもしれませんが、僕自身は東京にいて朝の満員電車でアポに行くときや、バンコクでオフィスに向かうときに、このような違いを感じます。

とくに新卒のコンサルの頃は、その空気に自分が押しつぶされそうになりながらも、順応してそれを”当たり前”として日々こなせるようになることが”すべきこと、あるべき姿”と認識していました。

ただ、いま海外で10年仕事をしていて、たまに日本に戻ってくると、海外のいい部分(例:時間効率・働きやすさ)は保ちながら、日本のいい部分(例:単価の高さ・仕事のしやすさ)を取り入れていくような形で新しい生活を築きたい、と感じます。

日本・海外、経営者・社員、などどんな立場であろうと、すべての人は自分の人生の主役であり、自分の人生を生きることが幸せなのだと思います。

日本に限らず、生まれ育った環境には必ず足りないもの・納得いかないものはあるはずで、それは引っ越したり、転職したり、違う環境と比較することで段々気付いていくことができます。

おそらくそれを最も気付きやすいのが海外に出ることであり、いまの日本人から「自分の人生を生きられる場所は、ここにあったんだ」と響きやすい場所の一つがタイ・東南アジアなのかと思います。

コシクロの初期メンバーが言っていた「人間のHappinessの最高値はバンコクにあります!」は、やはり名言です。笑

「若いうちに海外に出た方がいい」
「帰国子女のやつらは”自由人”だ」
「海外駐在したら帰ってこれなくなった」

きっと大なり小なり、そういうことなのかと思います。


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