明日児童相談所の一次保護の仕事の面接を受けてきます。

2023年3月31日私は教職を辞めた。そして2023年5月からはオーストラリアにワーキングホリデー。2024年2月に日本に帰ってきて、次のキャリアとして2025年4月の法務教官採用のための試験勉強に打ち込み、今は合否を待っている。受かれば7月に2次試験がある。

自分の状況としてはざっくりいうとそんな感じだ。
ただ、教員を辞めて時間ができた。だから改めて自分と向き合い続けてきた。これまで教員として働いていたとき、特に教員としての最後の4年目の年。私は、保護者のため、児童のため、学校のためなどと考えながら働いてきたが、働いているうちになんだか自分のことを責めるようになった。私がダメだから、私が頑張らないから、私に才能がないから、保護者対応も児童対応もうまくいかない。いじめも学級崩壊も私が悪いから起こってしまった。私の授業が下手くそだから。なんとかしなきゃいけない。でも結局。2023年11月に、教頭先生から私の学級が学級崩壊であることを改めて伝えられた。10月ごろには私も私の学級が学級崩壊であると認識していたが。11月教頭先生から私の学級が学級崩壊であることを正式に伝えられた。そのことは他の教員にも伝えられた。そのあとからは学校が組織として、チームとして私の学級を支えてくれた。他の先生に支えられながら、学級担任として働き続けたが、冬休み直前にわたしが学級担任を続けることを辞したいということ、それを持って教員職は終わりにしたいということを校長に伝えた。

しかし、学校事情も、子供のことも、保護者のことも考えると、学級担任が私ではない他の誰かになることは難しい状況にあった。私が勤めていた学校のその年度は校長先生が教科指導をしなければならないほど人が足りていなかった。私以外にも学級崩壊のクラスがいくつかあり、すでにそうしたことが理由で休職をしている先生が三人いた。3月31日までは、責任を持って最後まで務める。その後のことは考えなくていいから、3月31日までは。学校も支えてくれている。保護者も私を支えてくれている。何より私の学級は、その年度に学級担任が一度変わっている学級、つまり、子供たちはもし私が担任を辞めると一年に2回も学級担任の交代があったということになる。3月31日まで。とにかく1日、そして1日をのりこえる。学年団の先生の知恵も借りながらチームで学級経営をしていくこと、とにかく1日、そして1日。

しかし、冬休み。私はその年度で教員を辞めることは決めていたから、次の職を何するか考えることになった。ただ、仕事探しは何も進まなかった。自分などができる仕事などない。自分が働ける場所などない。でも働かなければならない。やりたい仕事など見つからないし、自分ができる仕事などというのも見つからなかった。自信がなかった。

街を歩いているときだった。英会話500円という看板が目に入った。理由はわからないが、興味が湧いた。無料のカウンセリングを受けることにしてみた。
無料のカウンセリングを通して、英語を通して私が何をやりたいかという話題になった。何もやりたいことがなかった私にカウンセラーの方が提示してくれた案。オーストラリアのワーキングホリデーだった。

英語の勉強であれば、誰に迷惑をかけることもない。自分ができないからという理由は理由にはならない。私はワーキングホリデーの制度を使うこと、そして英語を勉強することを決めた。英語は私が高校時代一番時間を費やして勉強したはずなのに一番苦手な科目でもあった。

3学期が始まった。毎日毎日、本当に休めることはなかった。しかし、2学期よりも気持ちは楽になった。他の先生のサポートもあった。自分にもワーキングホリデーという楽しみができた。当然ながら学級が突然良くなるなどということはなかったが、私が明るくなれたことで、子供達に笑顔が増えた気がした。そしてそれは私だけではなく、私の学級に関わる他の先生も感じていたみたいだった。もちろん、めちゃくちゃ悪い日もあったが、2学期に比べると、誰が見ても明らかに私の学級は変わった。私もダメな時にはすぐにSOSを出せるようになったし、他の先生も助けてくれたから、一人で責任を負う必要はないんだという楽な気持ちになれた。

そして終業式。
私が離任することを伝えると泣いてくれる子供が何人もいた。
終業式は大掃除をして、早めに掃除が終わったからみんなで大根抜きをした。そして離任式。子供達からのサプライズもあった。子供から私が学級を離れるように言われ、また戻ってみると黒板に感謝のメッセージ。涙腺は崩壊しそうだったが、私のよくないプライドが働き、絶対に涙を見せてさようならはしたくなかったので、大根抜きで楽しいまま、私が話す時間は設けずにさようならをしてバイバイ。

そして念願の。『オーストラリア』!!オーストラリアではオーストラリアでしかできないことをたくさん挑戦した。家庭教師。ジャパニーズフェスティバル。学校ボランティア。言語聴覚士。いろんな挑戦をしていろんな人と関わる中で、やっぱり私がやりたいことは教育であり、目の前にいる人たちを幸せにしたいということだった。そして大人数を相手にする仕事よりも私は一人一人にじっくり深く関わることができる仕事の方が好きであり、得意だった。子供と関わる時、教育に携わる時、やっぱり楽しかった。

教員として働いた4年目の最後の年。私は誇りに思えることが一つだけあった。それは不登校の児童が学校に来れるようになったことだった。ネグレクトの家庭で、1年生から3年生まで学校に来ることがほとんどなかった子どもがいた。小学4年生なのにひらがなも書けない。そんな子ども。服もかなり匂う。でも、その子の家庭に電話をかけたり、(あんまりかけすぎると家庭からブチギレ電話が来るのでかけすぎはしなかったが)たまに学校に来てくれた日にめいいっぱい遊んで、めちゃくちゃ休み時間遊んだ。

私が誰にも負けないと言えるのは休み時間誰よりも私が楽しめることだ。子供の世界の中に入ることがかなり得意である。偏差値をつけることができるなら、休み時間一緒に子供と遊ぶ偏差値はおそらくホリエモン並みと呼んでもいいと思っている。NASAにだって入れる気がする。

冗談はさておき。
私が教員になった理由も、私の目指す教師像も、「誰一人取りこぼすことのない学級」だった。だから、家庭であんまり手にかけられない子や、いつもクラスであまり目立たない子に特に関係を持とうとしていた。いつもだんまりしていたり、いつも絵を描いてばかりの子がニヤッと笑ってくれる瞬間が実は一番好きだったから。

法務教官が受かるのか、受からないのかわからない。けれどもいずれにせよ、今年度、できれば私は教員以外の仕事をしたい。そして、英検準一級合格。これも僕の今年度の目標だ。

てなわけで児童相談所の一時保護の仕事の求人案内を見た時、背中にビビビッと刺激が走った。これだ。と思った。だって、ね?わかるでしょ?

今思えば、学級担任として最後の4年目の年。そんなふうに否定的に自分を捉えたことこそがうまくいかなくなった一番の理由だったと今は思う。もちろん私以外にも原因はあるのかもしれないけど
私が私自身をもっと励まして認めて、私自身がなんでもしょいこもうとせずに、私が変えられるもの、掃除だったり、洗濯だったり、食事だったり、睡眠だったり、書類整理だったり、そういうやれば必ずできるものを最優先にして、私がやり方を変えることですぐに変化は見えにくいものに(授業、児童)あまり期待しすぎたり、プレッシャーをかけすぎたりしないことが次に同じ失敗を繰り返さない方法だと思う。

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