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配慮って何?

起業家の大学生二人と話した。

将来に対していろんな不安を抱えて、自信を失っている話を聞いて私は、私の考えを述べた。
しかし、言った後で反省をした。

喫茶店という形式で探求学習をしているカフェ&自習室に行った。そこで出会った彼らだったが、マスターの対応を見て私自身のコミュニケーションが未熟であったことを感じた。
マスターは彼らの将来に対する悩みや彼らが感じる現状の不満に対して、自分の考えを述べるのではなく、聞きながらジョークを挟み、その短いジョークの中に彼らの背中を押す言葉が散りばめていた。

コミュニケーションとはキャッチボールである。
私は自分の投げたいボールをただ投げただけだった。
相手のことを知ったような口で、まるで正論かのような物言いだった。
私の考えを述べた後の彼らの反応からそう感じた。
想像力がなかったなと思った。
反省している。でも後悔はしていない。

カフェを出た後、市が運営している施設でこんなポスターがあった。
「多様性の時代「LGBTQ」言ってはいけない言葉。」
「美しすぎるは実は言ってはいけない?」
「女子アナ、女医、女って使わなきゃダメなの?」

多様性の時代において配慮が必要。

配慮が必要なのは確かにそうだろう。


ん?でもなんか違くないか?


一般論などの物言いは好きではないが、あえて使おう。
一般論というのが正しいというわけではないのに、多数派というのが正しいというわけではないのに、一般論や多数派という言葉が一人歩きし、それこそが一つしかない正解のように圧を持って聞き手の感情をえぐることが往往にしてある。

『特別支援学級。通常学級。特別支援学級にいる私は通常ではない。
通常ではない私は異常。』

私自身の肌感覚だが、特別支援学級に在籍しているという事実に在籍児童の多くは自信を失い、私は普通じゃないから、やってもできないんだと、ちょっとしたことで折れやすかった。特別支援学級に自分の子を入れたがらない保護者心理も同じ。私の子供は普通である。だから特別支援学級に入れる必要なんてないと言って通常学級で授業に必死でついていけている振りをしなければならない子供たちはとてもしんどそうだった。

では特別支援という名前がよくないのか。通常学級という名前がよくないのか。

改善の余地があるだろう。しかし問題の本質はそこではないのではないだろうか。
多数派が正義、通常が正義とか、女らしさこそが正義、男らしさこそが正義という思考や感覚が蔓延している社会にこそ問題があるのではないだろうか。
女らしさが美徳と感じる社会でいいじゃないか。男らしさが美徳と感じる人がいる社会でいいじゃないか。多数派に従うことに喜びを感じる人がいる社会でいいじゃないか。

人はコミュニケーションにおいて人を傷つけないなんてことはできない。
それぞれ自身の価値観を持って知らない間に
傷つけたり傷つけられたりしながら生きている。
それらを避けることはできない。
人を傷つけたくて傷つける人はほぼいない、でも傷つけてしまう。
それが人であり社会であると思う。

極論、人を傷つけないためには人と関わらないことが一番の解決策である。
誰ともコミュニケーションをしなければ人を傷つけることも傷つけられることもない。
マニュアルに任せて当たり障りのないコミュニケーションをすることでリスクを大きく減らすことができる。

しかしそれはどうだろうか。自分の発言によって人が傷つけるかもしれないという覚悟を持つこと。人に傷つけられるかもしれないという覚悟を持つこと。
その想像力を持ち合わせた上で人と接することができるのであれば、それが配慮というものではないだろうか。
人を傷つけるかもしれないから自分の意見を言わない。のが配慮ではなく、
人を傷つけるかもしれない、だから想像力を働かせて相手を理解しようとする態度でいること。

コミュニケーションにおいて大切なのはハウツーではない。
何言われてもこの人なら大丈夫と思える人というのはハウツーを超えたところにある。

多様性の時代だから、この表現は使わない、使ってはいけないだけが社会に広がれば、窮屈さやフラストレーションが社会に蔓延し、結果コミュニケーションをとることにリスクを感じるしかなくなる。マニュアルのような会話は面白くないし楽しくない。事なかれ主義の会話はものすごくつまらない。
極端なことを言えばいいという話ではもちろんないが、当たり障りのない話をすればいいというのももちろん違う。

カフェでの私の発言。

気にしすぎる必要はない。自分の考えを述べたまでだ。ただ、私なら想像力をもっと働かせてマスターのように彼らのやっていることに尊敬し、背中を押せる人間になれるようになりたいと思った。

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