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【小説】案山子 第2話

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 祈りの声で目が覚めた。

 重なり絡み合う数十の声。老人は低く、男は太く、女はしなやかに神への感謝を紡ぐ。不格好な編み物のように、拙い子供の声が不規則にぴょこぴょこと飛び出す。

 葉陰から覗き見る、光の柱。水晶板に許された日光が床に形作る円の中に、全員が太陽を向いて立っている。植物に覆われた岩が並んでいるように。

 愛の御神みかみが与えたもうたこの身には。

 愛が花咲き実るでしょう。

 愛の花を捧げましょう。

 感謝の花を捧げましょう。

 皆が声を張り上げる。瞳を輝かせて。それを取り囲む、薄紅色の布を身に纏った天使達。背中には夜中の小鳥から毟ったみたいな白い翼。顔には作り付けの微笑。足は床からわずかに浮いている。

 祈りの言葉が終わると天使の一人が言った。

「与えられた命を無駄にすることなく、本日も励みましょう」

 それが合図となって、住人達は棘で肌を傷付けないようにそろりそろりと動き出す。ぼくも何となく立ち上がり、壁際にある食事場所に向かった。

 隅に置かれた大鍋の内側には灰色のねばねばしたものがこびり付いている。ほんの少し指ですくって舐めてみる。ほとんど味はしないのに、何とも言えないえぐみと生臭さが鼻に抜けた。

 鍋を素通りして、ゴミを入れる籠を覗いた。果物の皮がたくさん入っている。橙色の欠片を口に入れる。苦くて、ほんのわずか甘い。筋っぽいが噛めないほどではない。

 空腹が満たされると元の場所に戻った。鉢植えの置かれた薄暗い一角からは、温室全体が見渡せる。座って筆を握れるようになったばかりの子供から、蔓に巻かれた枯れ木のような老人まで、真剣な顔で低い机に向かっている。利き手の側に紙を、反対側に傷んだ分厚い書物を並べ、一つひとつ文字を書き写す。

 自身が子供にしか見えないくらいの父親に抱かれた赤ん坊が時折声を上げ、静寂を破る。その度に天使がふよふよと寄って来て、あの微笑で覗き込む。

「申し訳ありません、うるさくしてしまって……」

 若い父親は誰にともなく謝罪する。

「構いませんよ。子が泣くのは当然ですから。大変でしょうが、あなたもきちんと務めを果たさねばなりませんよ」

 はいと答えて少年は筆を取ったが、片手で抱いていた赤ん坊が泣きながら身を反らし、その頭が机に当たった。机の上の墨が波打ち、書きかけの紙に飛び散った。

「す、すみません、貴重な紙が……」

 口元に笑みを浮かべたまま、天使はわずかに眉をひそめた。

「大丈夫。失敗は取り戻せますよ。一層の奉仕をご覧になれば、慈悲深い神はあなたをお許しになるでしょう」

 頷く少年の顔は引き攣っていた。下半身に透き通るような若葉が芽吹く。

 そこにホウコと祖母が身を屈めてやって来る。

「贖罪のご奉仕は私が引き受けます。どうかご勘弁を……」

 祖母が名乗り出ると天使は目を細めた。機嫌が良くなったのだ。

「良い心掛けですね。神もお喜びになります。あなた方は皆の模範となりなさい」

 天使がすいと離れ、停滞した空気に微かな風を起こす。残された祖母は赤ん坊の父親に向かって密かに微笑み、ホウコの持って来た布切れを目頭に当てた。低い声で贖罪の祈りを呟き、神への愛を誓う。滲み出た涙で布切れを濡らし、紙に飛び散った墨を丁寧に叩く。その間にホウコは机を少しずらして書写の続きを引き受ける。少年は謝罪の言葉を小さく繰り返しながら、縋るように赤ん坊を抱く。

「気にしなくていいんですよ。お互い様ですから」

 ホウコが少年を慰める。

「でも俺、迷惑掛けてばっかりで。今日の分の奉仕も全然進んでなくて、ホウコさん達の仕事を増やしてしまって……。お二人がいてくれなかったら無理です」

「わたくしなど大したことはありません。たまたまお手伝いできるから、しているだけです。当然のことです」

 少年は激しく首を振る。卵型の葉がさわさわと鳴る。

「ホウコさん達は特別なんです。雑草も生えたことが無いんでしょう。俺みたいな落ちこぼれとは違う」

 そんなことは、とホウコは口籠もり、困ったように微笑んで手元に視線を落とした。筆がさらさらと動き、紙の上に黒い円弧を重ねる。

 ホウコの祖母が布を床に置き、薄くなった染みに白い粉を擦り込む。斜めに射していた陽光が真上から降り注ぐようになるまで根気よく。

「そら、汚れが綺麗になったよ。ホウコは自分のお務めに戻りなさい。あとはばあちゃんだけで平気だから」

 ホウコは「はい」と返事をして慎重に立ち上がった。ホウコが書いていた紙を祖母が引き継ぎ、少年の奉仕を肩代わりする。眠った赤ん坊をうつ伏せに膝に乗せ、少年もようやく筆を取る。

 赤ん坊の背で日光を照り返す若葉が誰にも気付かれないような速度で開いていくのをぼくは見ていた。

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