【小説】案山子 第1話
真っ暗な空に小鳥が飛んでいる。
一羽や二羽ではない。何十羽もの白い小鳥が蛾のように、水晶板の天井に群がっている。
小鳥達はわずかに曇った透明な板を小さな嘴で叩く。氷の礫が降っているようなコツコツという音が温室に響く。満月の光を遮っていた小鳥に、ぼくは両手に一枚ずつ持った円形の鏡の片方を向ける。小鳥は鏡に映った自分自身の姿に驚いて、水晶に翼を打ち付ける。発光する鱗粉のような軌跡を残して小鳥は去っていく。そしてまた別の小鳥が現れる。その繰り返し。
「今夜は鳥が多いなぁ」
寝息を立てる幼子を膝に乗せた男がぼくの足元で呟いた。
「満月だからねぇ」
男の母親が幼子に愛おしげな眼差しを向けて応じる。
「おばあちゃん、背中が陰になってるよ。ちゃんと月光を当てないと」
孫のホウコが老女の肩を両手で包んで身体の向きを変えさせる。背中を覆う蔓と薄く柔らかい卵型の葉が青白い光に照らされる。まだ硬い雫型の蕾が、濃い色の葉の間からはにかむようにひっそりと顔を出している。身体を動かした拍子に、蔓に生えた三角形の棘が乾燥した背中に赤い筋を付けた。
「ごめん、おばあちゃん。傷が……」
「こんなの傷の内にも入らんさね。年寄りはどんくさいからね、これくらいの傷、しょっちゅうよ」
抑えた声でからからと笑う祖母が、泣き出しそうな顔の孫の手を取る。ホウコは堪えるように微笑んで祖母の隣の床に腰を下ろし、祈るような前傾姿勢で背中の蔓を満月に向けた。まだ緑色に固く閉じた蕾がいくつか。紅く色付き、今にも咲きそうな蕾もある。触れただけで茶色く腐ってしまう瑞々しく繊細な花弁が反り返り、十重二十重に包んだ秘密を匂わせる。何かを待つように、求めるように。——あの花は明日明後日にも切り取られ、捧げられるだろう。誰も見たことのない神に。
蔓を生やした裸の人間が、温室のそこここにうつ伏せで転がっている。呼吸による微かな上下の動きが無ければ、隅に置いてあるプランターと変わらない。
コンコンコンと立て続けに音がする。ぼくはまた鏡の向きを少し変えて小鳥を追い払う。静寂。それだけ。月が天井に見えている間じゅう、ずっと突っ立っている。毎日毎日立っている。
「ホウコは本当に良い子だねぇ。優しくて働き者で、ばあちゃんも鼻が高いよ」
「そうだな。父さんの自慢の子だ。天使様もお喜びだろう」
祖母と父がホウコの頭を撫でる。まだ根が張っていない、前髪の部分を。
「そんな……当然のことをしてるだけだよ」
ホウコは恥ずかしそうに俯いたが、嬉しさは隠し切れていなかった。ぼくはお腹の根が蠢いて深いところを探るのを感じた。
父親が動いたせいでホウコの弟が目を覚ました。むずがって、背中を掻きむしろうとする。
「やめなさい。〈愛の花〉に傷が付くだろう」
父親が子の両手を掴んで動きを封じようとするが、子はますます機嫌を損ねて泣き叫び、丸っこい足で父親の腹を蹴った。その脚から手の平のように先の割れた葉が芽吹き、瞬く間に蔓を伸ばしていく。顔を引き攣らせた父親の腹からも愛の花ではない蔓が伸びる。
「二人とも、落ち着きなさい。この子はばあちゃんが見るから、あなたは雑草を収めて——」
祖母が幼子に手を伸ばす。慌てたせいで幾つもの棘が肉に食い込む。
「おばあちゃん、無理に動かないで」
ホウコが諫める。
他の住人は四人を遠巻きに見ている。雑草は伝染するから。
弟が耳をつんざく不快な金切り声を上げた時、ぼくの腿の辺りにある蔓の密集地帯から大人の両手に乗るくらいの大きな赤茶色の鼠が飛び出し、子の脚に飛び乗った。口を小刻みに動かして雑草を齧り切り、もしゃもしゃと口の中に収納していく。弟の雑草を綺麗に食べ終えると次は父親のも。雑草が無くなると幼子は潤んだ目をぱちくりさせ、鼠を見てキャッキャと笑った。
「オオアカさん、助かりました。いつもありがとうございます」
ホウコと祖母は鼠に向かって平伏する。父親も子を抱いたまま頭を下げる。
オオアカさんは毛の無い長い尻尾を引きずって、素知らぬ顔でのしのしと夜の散歩に出掛けて行った。
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