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「君たちはどう生きるか?」は誰の感想も見ずに見て欲しい映画。


公開日の夜、満席になっているので平日のやすい時でいいか〜と一度は諦めたものの、翌日にどうしても気になって観に行って、なかなか自分の中で感想を落とし込めてなかったのが、ようやく繋がってきたので、書く。

そしてその感想を持って一つ思ったのが、「この映画って、ネタバレが存在しないんじゃないか・・・?」って事でした。
もちろん、なんていうんだろう、この映画の出来事の露出をネタバレというならそれは存在するんだけれども、この「ネタ」の部分をどう捉えるか?という話で、ちょっとこの感覚を文章にできる気がしないんですけど誰かわかってくれる人いないだろうか。
この映画、展開がわかったところで、見る人の感想に影響がないと思うんですよ・・・。
ただ、その代わり私が感じたのは、「誰かの感想を読んで映画への先入観を持って見て欲しくない!!」という観客への謎の欲求(?)でした。ネタバレより感想を見ない方が面白い映画なんてあるのか?!あります!

だから、まだ映画を見ていないけど感想を読もうとしている方、ちょっと待って・・・・・!
ぜひ、この映画を見て、自分がどう感じるか?感じてみて欲しいな〜〜〜〜〜〜〜!

見た方はぜひこのまま下へ。






他人のことは誰にも分からない。


それが、私の感じた「君たちはどう生きるか?」です。

眞人がどういう意図でどう考え、行動したか、というのがとても見えにくい映画でした。これは宮崎駿アニメーションの中での最上級のリアリティと感じました。
わたしの個人的な印象かもしれないのですが、今までのジブリ作品含め、映画や物語って基本的に登場人物の心理描写が結構多めな気がするんです。
人物のことを理解してもらえるように。例えばそれを周りの雰囲気や美術で表現したりもするし、
その時は分からなくても後からわかるような構成になっていたりしますよね。
アニメ実写問わず、キャラクターを理解してもらってこその作品、理解して欲しいという気持ちが作り手にあるからそうなるのかな?と感じています。その方が愛着も湧きますしね!

対して、これは見た人によって全く感想や、眞人の人物像が変わる映画だと思います。
世界観はもちろん、今までの作品を彷彿とさせるようなシーンでのファンサ(?)もとい懐かしさ、そして登場するキャラクターも、何もかもジブリだった。

でも違和感も感じた。
端的に言うと、「起承転結が弱い」。

私、自分の感じたものをそのまま表現したくて、まだこの映画を見た方の考察や通しての感想を読んでないんです。だから、もしかしてそう感じたの私だけかな?なんてドキドキしていますが、何を隠そう、そう感じました。そして、そういう作品こそが宮崎駿監督の本当に作りたかったものなのかな?と思いました。

眞人にとっては、これは非日常ではなく日常の一部に過ぎなかった。
ジブリという創造された世界の中ではあっても、そこであまりにも当たり前のように過ぎる、でも眞人は一生懸命に、必死に考えて生きる、そんな人間の一生の一部を私たちがスクリーンで見ただけ、という感じがした。

普通は、という言葉もふさわしいか分からないが、そんな日常的な出来事に絵に描いたような起承転結や大きなメッセージ性はない。
しかし、その分小さな出来事に気づくことが多いんじゃないかと思います。
だからこそ人によって着眼点は違う。見た人の生き方や価値観によって物事の受け取り方は変わる。

眞人はずっと考えていた。
冒頭のシーン、火事でお母さんのいる病院に自分も向かおうとした時、わざわざ引き返して服を着替えた。
引っ越してすぐ、何度か見かけただけのアオサギに自分から向かっていった。
学校で喧嘩したあと、自分で自分を傷つけた。
いなくても良いと思っていた人を、急にお母さんと呼びだした。

なんでこんなことをするんだろう?という行動が途中いくつもわたしにとってはありました。
でもそれは眞人がずっと考えていたからなんだと思う。
人の頭の中は覗けない。彼に直接聞かない限りは、「なぜ、そうしたのか?」を知る由もない。

だから、宮崎監督にも眞人のことは分からないのかも。監督の説明できる世界の中で生まれる作品は、彼の範疇を出ることはないから。監督の世界の中で、眞人は生きていた。
今回、作品の尋常じゃない走馬灯感から、本人も集大成という気持ちで作品を作ったのかな、と思いました。「本当に自分が表現したいこと」に集中して作った結果、監督はなにか新しいものを生み出したんじゃないかな、、、って。ぶっ飛びすぎ?

私は「君たちはどう生きるか?」を読んだことがありません。なので、作中で眞人が受け取ったお母さんからのメッセージがどういうものか、全く分からなかったです。なので終わった後読みました。

本は流石にすぐ読める自信がなく、漫画を買いました。お母さんからのメッセージは、自分が世界の一部であることを知りなさい。そして周りに流されるんじゃなく自分で考えなさいよ(めっちゃ要約)、という事なんだと思いました。
この「自分で考えなさい」はこの映画を見た後私が最初に抱いた感想でもありました。

日常の中で色んなことを考え、師とも呼べる人からアドバイスをもらいながら日々を過ごしていた主人公。でも、たった一度の大事な場面で、大好きな仲間を自分の弱さで裏切ってしまった。
そこで色んなことを知ったつもりでいた主人公は何もできない自分の情けなさに絶望して、自分の殻に閉じこもってしまうが、復活する。そんな話と私は思いました。
(本の感想の記事ではないので、気になる方は、ぜひ読んでみてください。)

その中で、自分が中心で回っているのではなく、自分も他の中のひとり、人は分子だ、という言葉が出てきます。改めて考えるとこの部分は、監督が今作でインスパイアされているところなのかもしれません。だからこそ、主軸となる人物像も(他のジブリ作品に比べたら)薄い。後ほど記述しますが、眞人もまた他の人の人生の一部なんですよね。

私がこの映画を通して感じた眞人の性格は、「自分に嘘をつきたくない子」

最初は礼儀正しい子かと思いきや、ばあやたちに気を使う様子もない。タメ口で横暴にも聞こえる物言い、出てきたご飯を美味しくないと言う。
新しい母になるなつこにはあからさまな態度をとり、喧嘩の跡を心配するであろう家の人に転んだと言うのは簡単だが学校にもいきたくなかったので、自らをひどく傷つけて自分で転んだと言った。
これだって「転んだ」は嘘なので最初は矛盾していると思ったが、眞人は嘘をつきたくないんじゃなく、自分を大事にしたいんだと思った。正直、とも少し違う気がするんです・・・。
酷いことをしたペリカンの素性を知り、お墓をつくって弔ったり。
かと思えばアオサギの扱いは乱雑。でも最後には友と言った。

なつこだって正直分からない。
探しにきたまひとをあんたなんか大っ嫌い!と言い放ったり。かと思えば「逃げて!」と言う。
一見眞人を気にかける良い母親のように見えたが、眞人の態度に嫌気が差していたのだろうか。
これから生まれる子供に対し、眞人を疎ましく思っていたのだろうか。
あの状況で眞人を必死にあそこから離れさせようとした可能性もあるが、自分はここに居たいのにいつまでも勝手な眞人に思わず口をついて出たような感じもする。

キリコは塔に向かう時、「あんたはなつこさんがいないほうがいいと思ってるのに探すのはおかしいよ」と言った。
その時、そのあともなつこを連れ戻す理由を何度か「お父さんの大切な人なんだ」と父のせいにするが、作中で眞人が父に対して好意的な表情や行動を見せた場面はなかったように思うので少し違和感があった。

眞人がなぜあの石に囲まれた空間で「お父さんのために」から、なつこを「お母さん」と呼んだのか。「なつこお母さん」と呼んだのか。
自分が二度母親を失おうかとしている時に、自分を突き放され、なつこがいなくても良いというのは自分の強がりで、本当はもう母親を失いたくない、心の奥底では母親を求めていたということに気付いたのか。
でも、本当の母親ではないから、「なつこお母さん」と、区別をつけるように呼んだのか。

これら全部、わたしの妄想でしかない。
そうして考えているうちに、こういうことを私たちは日常でどれだけの人に対して行ってるんだろうか。そんなふうに思った。

みなさん、身の周りで耳にしたことがあると思います。
「あの人はこう思ってるんじゃない?」
「なんであんなことするんだろう?」
「きっとこういう人なんだよ」

他人のことは誰も分からないんだなぁ。

だから、気になるなら聞けばいいのに〜、なんて思ってしまうけれど、その人をそういう人だ、と思っていたい理由が何かあるのかもしれない。

さらに、聞かれた方が本心を答えない事だってある。
でも、その人がそう言うなら、その時はそうなのだ。
回り回って、本人はちゃんと後から本心に気付くようにできているのだ、なんていうのは、ちょっと表現が綺麗すぎるでしょうか?
でも、自分の本心から離れれば離れるほど、色んな事が起こるような仕組みになっている、とわたしは日々感じています。
まぁ、この辺は好き好きある話題なのでこのくらいで。


感想は、こんな感じでした。

考察についても、少しだけ書いてみようと思う。
今回は私の知識に及ばないところが多すぎる気がしました。後、もう一つうっすらと感じるのが、「監督、そこまで深く考えてないような気もする」というオチ。でも細かいところはやっぱり意味や意図があるんだろうと思ってしまうのが人間の性。

最近、時間についての映画が多いように感じる。私がみた数少ない映画でも、「すずめの戸締り」「かがみの孤城」、そしてこれ。

この三つの話で共通しているのが、「全ての出来事が必然」という事。

眞人が降りなかったら、ひみはまひとを産んでいないし、キリコも戻っていない。
つまり、眞人が産まれた時点でこの未来は確定演出だったって事ですよね。
ひみにとっても、眞人と出会った時点でここまでの道筋は確定演出になる。

これは逆に捉えると、時間には方向がない、とも考えられます。
「そもそも時間というものに方向がなく、この瞬間に、過去と未来が決まっているので、全て同時に存在しているとも言える。」こんなふうに書くと量子力学の話のようにも感じますね。

自分のその瞬間の選択で、過去が出来上がり、未来が決まる。
よく「過去が変わった」なんて言葉を聞くこともありますが、それはその瞬間で決まった未来での軸では、そういう過去だった、というだけで、でも自分の記憶にはその一瞬前ごとの過去が残っているので変化したように感じる。それって、常に現在・過去・未来が同時に存在している、という事の証明にもなるような気がします。

だから、眞人が産まれている時間軸と、ひみが眞人と出会う時間軸、同時に存在しているんだと思います。
なつこはもしかしたら降りたところの話をひみから小さい頃に聞いていたのかもですね。
これらは眞人がこういう行動をとらなかったら存在しない出来事にも転じる。でも降りたところで生活するひみは存在するし世界も動く。だから、「人は世界の一部(パーツ)」と言われるのかなぁ、なんて。
眞人が中心の世界なら眞人が存在しない時点で世界はなくなる。でも実際はなくならなくて、人の数だけ眞人のいない世界がある。自分がどう動くかによって周りに与える影響も変化し、物事も変化する。別に3つの映画の考察をしているわけでもないんですけど、もう一つの共通点が「時間が交わる場所は別の空間にある」というところですね。

今回の「降りたところ」、これはドイツで言い伝えられている死後の世界に似ていて、「人の魂は水底と地上を循環する」と考えられてるようです。
二人が「降りて」いって、死者と生者(この場合、これから生者になる、という意味でワラワラ)が共存する世界で、ワラワラが熟すと上に言って人間として生まれる、というのがしっくりきますよね。
まあ帰りは扉で帰るんですけど。笑
日本でも輪廻転生という考え方がありますね。作中光の中をくぐっていくと、インコがここは天国!?というような場所に行き着きます。
一瞬降りたところはお腹の中かな?なんて思ったりもしたけど、ちょっと違う感じがする。
でも海という羊水の中で栄養をもらって成熟した魂が産まれる=出産 って感じもするんだよな〜

登場物や動物について

もはや考察じゃない。自分の想像力の限界を知りたいので・・・エンターテイメントとお受け取りください・・・

「アオサギ」は、調べるとなんと「ガイド」の役割があるそうです。すごい!そのまんまだ!!
そして「自立心」の象徴だったり「自分が信じた道を進んでいきましょう」なんていう意味もあるそう。すごい!そのまんまだ!! 動物に対しての意味ってどういうこと?とも思いますが・・・。

「カエル」は「神の遣い」とも言われていますがキリスト教では「魂のメタファー」でもあるみたい。やっぱり降りたところは魂の関係する場所なんだろうなと思います。
私は最近JOJOストーンオーシャンを見たばかりなので心の中でそのカエルにウェザーリポートの面影を想いそして泣いていました。

そして、「ペリカン」は、「自己犠牲の鳥」とも言われているそう。しっくりくるような来ないような。可哀想ではあったけど、自己犠牲ではないような・・・他の方がどんな解釈をしているか、気になります。

「インコ」は興味深い。「自己を持っている」「知性」「絆」「バランス、調和」
あの世界で幅を利かせているのも頷ける。「インコが増えた」というのも、今まではそれぞれがそれぞれの役割の中で動いていた世界に「自己を持った鳥:意思」が介入し、この場合はバランスが取れているというよりも、バランス、調和がとれなくなっている、というほうの象徴としてインコだらけの世界になったのかなと思いました。(インコが乗っ取ったという話があったので)

「弓」は、神の力を表すものであり、魔除けとしても用いられます。

そして「石」。
宇宙から飛んできた石がそもそもの始まり。大叔父様の未知との遭遇感がすごい。
一方で石は神様や信仰と関係の深いものというイメージがありますよね。すずめの戸締りでも出てきました。
でも今回は神の依り代とは少し違う気がします。「悪意」という言葉がたくさん出てきたので、どちらかというと、人の念(魂のいくところにあるものなので、墓石的な?)が溜まるものというような表現をされていたように思います。
そしてそれは人を攻撃します。マジでこれが謎
石と意思も掛けられているのか?とも思えますよね。
お墓の扉には「これを学ぶものは死ぬ」って書いてありましたよね。結局どういう意味かはわからないまま終わったんですけど、石は永遠の命の象徴でもあるから、人間として学び生きるものには等しく死があります、っていう意味なんだろうか?
キリコが張った結界のようなもの、墓には何が眠っているのか、気になることだらけです。
なつこの部屋にも同じ墓がありました。墓石は生きているものと亡くなったものとが会話をする仲立ちの役割をする石らしいので、一度亡くなって再度地上に登ってくる魂を繋ぐ(妊娠出産)、という意味でその場にあるんだろうか・・・

後はもう、気になるんだけどよくわからん!ということが多すぎで一旦ギブアップ。
モヤモヤしているところを書き出して終わりにします。

「悪意のない石」と「悪意のある石」の違いとして悪意の意味を心の中に生じる意思ととると、「こうしたい、という想いのないもの、純粋なもの」という意味にもなり、それを純粋な者が積むことで安定した世界が出来上がるってことなんだろうか。なんで13個だったのか、なんで3日に1個だったのか・・・わからないことだらけだよ〜
大叔父には悪意(意思)があったので世界は不安定だった?王様はもっとあった。なので一瞬で崩れた?
でもその前に「ここに一つ差し込んで安定させなさい(ちょっと言葉が違うかも)」とも言ってた。

眞人はそれを理解していて石積みを拒否した?
世界が長く持たないことも理解していた。でなければ「1日しか持たないんですか!?」という答えにはならないと思う。

後扉の横にある椅子。あの椅子はなんなの。とか、
なつこの上をグルグル回る紙切れが神物っぽいけどよくわからないとか、(攻撃の時龍を摸してたよね)

ひみはそもそもなんでこの世界で火が操れるのかとか(もしかして元々キリコと共にこの世界の住人で帰るタイミングで眞人を産むために人間となり過去が出来上がった?ひみが1年消えた話をしたばあやはまひとの現在のばあやなので眞人が産まれることが決まった時に出来た過去かもしれない。だから下の世界のことを忘れるのは当たり前。)
ひみがなつこを説得した時何にやられたのかとか
なつこは眞人を何から遠ざけたかったのかとか
アオサギと対峙してなつこが助けに来てくれたときの木刀にも疑問が残る。
あれは夢だったのか現実だったのか。でも、木刀が壊れることは必然だったんだよなぁ

なんとなく今回の登場人物やストーリーの感じで、色々繋がらないのが当たり前のような気がしている。それは「監督が作りたい世界を作ったからモデルはない」気がするから。
結局あれやこれや考えるのは楽しいし、それが作者の意図に沿っているのかはわからないですよね。

感想をやっとまとめられたので、他の考察や感想を読むのが楽しみです。
あくまで一個人の妄想なので、変だなぁと感じるようなこと書いててもあんまり怒らないでくださいね!

ぜひ映画館で見て欲しいなぁ
私は終わった後のあの会場の空気が忘れられません。
全員の頭の上に?が浮かんでいたような空気。なかなか体験できるものじゃない。

長々お付き合いくださりありがとうございました^^

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