「私はあなたを赦します」
ミネソタからの帰り道、シカゴで6時間も乗り継ぎの時間ができてしまった。
もともと乗るはずだったフライトがキャンセルになってしまったのだ。
本当だったら、会社の携帯で溜まりすぎたメールを読み始めるべきなんだろうが、どうしてもそんな気になれなかった。
ゲートの前で椅子に座って、ダンキンドーナツを食べながらnoteをあちこち飛び歩いていたら、こんな記事に出くわした。
圧倒的に引き込まれて、その場でヴィンセントに「次の週末はこの映画を観よう」とメッセージを送った。
ジュディ・リンチとスティーブ・クーガンによる「フィロミーナ」(邦題「あなたを抱きしめる日まで」)。
事実は小説より奇なりといわんばかりの、真実をもとにした映画。そして、アイルランドのカソリック教会の闇をえぐった映画でもある。
映画のあらすじはこうだ。(完全にネタバレです)
1950年代、厳格なカソリックの教えが一般的だったアイルランド。
18歳のフィロミーナはお祭りの夜にハンサムな青年と出会う。
6歳の時に母を亡くし修道院で育てられたフィロミーナに、子供がどうやってできるかを教えるひとはなかった。
妊娠したフィロミーナは、実父によって、婚前交渉で妊娠した娘たちを預かる修道院へと送り込まれる。そこでは1日に1時間だけ子供との面会をゆるされた若い母親たちが、手洗いでの洗濯など過酷な労働を週7日休みなく強いられていた。
しかも、その修道院では「寄付」という名の金銭と引き換えに、アメリカ人にその子供たちを売っていた。
フィロミーナの息子アンソニーも、女の子を望んでアメリカからやってきた女性に偶然気に入られ、女児と二人兄妹として突然引き取られることになる。
決して消息を追わないという書類に選択肢なく署名させられ、アンソニーと離別するフィロミーナ。
看護師として独立し、やがて結婚したフィロミーナはその後50年の間、アンソニーのことを忘れたことはなかった。彼女の目には、車の後部ガラスから母を探すアンソニーの姿が焼きついていた。
しかし、婚前妊娠は宗教的、道徳的の罪業であると叩き込まれていたため、結婚後授かった子供たちにアメリカにいるだろう異父兄のことを告白することはなかった。
しかし、ある日。フィロミーナは、娘のジェーンにアンソニーの存在を告白する。
消息を探してみようというジェーン。まだインターネットのなかったころのこと。そんな国境を越えた人探しは、普通の人間にはかなわなかった。
そんなとき、ジェーンは偶然ジャーナリストのマーティンと出会う。
マーティンは元BBCの敏腕記者。イギリス政府の仕事を辞めさせられ、くさっていた彼は、興味のない「人情物のストーリー」を追うことを最初は渋っていたが、新聞社がスポンサーすることになり、フィロミーナと2人で調査を始める。
結果、アンソニーはマイケルと名を変え、なんとレーガン大統領の首席法律顧問を務めるまで成功していたことがわかる。
が、ここでまた、宗教的、道徳的罪業が悲劇を呼ぶ。
マイケルはゲイだった。
そんなマイケルを、保守主義である共和党政権が認めることはない。だからマイケルはゲイであることを隠し働いていた。
しかしエイズへの感染と発症により、彼は仕事を失い、そして失意のうちに死亡していたことが判明する。
しかも、政治報道記者だったマーティンは、首席法律顧問だったマイケルと面識があったのだ。
「あの子は生まれた国アイルランドのことを話していたか」
すでに会う望みがなくなった息子が、果たして自分の出自について触れていたのかを知りたいと願うフィロミーナ。
しかしマイケルのパートナーからはジャーナリストの興味本位のインタビュー依頼だと思われ、面談を断られる。
あきらめとともにアイルランドに帰ると決意したその時、マーティンは、マイケルのプロフィール写真の胸にアイルランドの象徴ケルティックハープのピンがあることに気づく。
ダメ元でパートナーに会いに行く2人。
そこで、マイケルもまた同じように必死に母親を見つけようと、養子元の修道院を何度も訪ねていたことを知る。
また、養父とうまくいかず家族から孤立していったことも。
けれど、死を目前としたマイケルの必死の嘆願にも、修道院は頑として情報を渡さなかった。
失意のまま、マイケルはせめてもの願いとして、寄付金と引き換えに、修道院の墓地に埋葬するよう依頼していた。
そう。フィロミーナとマーティンが最初に訪れたその修道院の、厳しい出産で死亡した若き母親たちや赤子たちと同じ墓地に、彼は眠っていたのだ。
怒りをあらわにし、当時の責任者であった修道女に詰め寄るマーティン。
しかし、フィロミーナはあくまで平静を保ち、そしてその年老いた修道女に告げる。
「私はあなたを赦します」と。
♢
実話をベースにしているので、レーガンの首席法律顧問だったマイケル・ヘスにはウィキの記事が存在する。
それによると、15年に渡るパートナーであったスティーブ・ドールフは「マーテイン著作の本は正確さという点で10点満点で3点だが、映画はメッセージ性として10点満点中10点である」とコメントしている。
ちなみに、こてんぱんにいわれているこの原作を書いたマーティン・シックススミスの最初の記事は、デイリーメイル紙に載ったもので、いまでも見ることができる
それをもとに、脚色し脚本を書き、90分という昨今ではやや短めの映画に仕立てたのは、マーティン役を演じたスティーブ・クーガン。
普段はコメディ映画への出演が多い役者だが、ゆえに、この映画も、決してただのシリアスな涙頂戴映画になることなく、ジュディ・リンチの「アイルランドのおばちゃん」ぶりと、エリート記者のデコボコぶりが、いろんなところでクスリと笑いを呼び、そのコメディ具合がとてもよい。
モデルであるフィロミーナ本人も「一回目に見た時はちょっと消化に時間がかかったけど、そのあとからは、とてもよくできていると思った」とインタビューでこたえている。
ユーモアのセンスあるアイルランドのおばちゃんで、クーガンの脚本が、きちんと彼女の個性とチャーミングさを分かったうえで、丁寧に描いていることがよくわかる。
このインタビューによると、実際の時系列は映画と異なり、娘のジェーンさんによって、早い段階でマイケルがすでに亡くなっていて修道院の墓地に埋葬されていることは見つけ出していたそうだ。
ただ、そのマイケルが、アメリカでどんな人生を送っていたのか、墓標はワシントンで亡くなったとしかなかったため、ジャーナリストであるマーティン・シックススミスに調査を依頼したらしい。
養父母には既に息子たちがいたため、女児が欲しくて養母はアイルランドにいったこと。
たまたまその女児ととても仲が良かったアンソニー(マイケル)が養母の頬にキスしたため情がわき、また幼い2人を引き離すに堪えず、養母がアメリカにいた夫に懇願し二人で引き取られたこと。
ゆえに、養父はあまりマイケルに愛情を注がす、学費のサポートすらされなかったこと。
しかも厳格なカソリックだった養父にはゲイであることは到底受け入れられなかったことなどが判明した。
ちなみにフィロミーナ自身は、マイケルがゲイであることをすんなり受け入れている。
それは3歳の時点で彼がとても繊細な子供だったこと、そして看護師をしていたとき、たくさんゲイの同僚がいて、彼らがなんら普通の人間と変わらないと分かっていたからだとこたえている。
カソリックの環境に未婚の子として生まれたがゆえに、アイルランド人というアイデンティティを、自らの名を奪われたアンソニー。
さらに後年、マイケルとなったのちは、カソリック、そして保守主義の人々に、ゲイというアイデンティティをも否定されたことになる。
ひとつだけアイルランドの名誉のためにいうならば、2015年、比較的早いタイミングでアイルランドでは国民投票により同性結婚が法制化された。
また当時大臣だった政治家がゲイを公表し、のちに首相にまでなった国でもある。
一方で、アイルランドで離婚が法的に許されるようになったのは1996年。
堕胎が許されたのは同性結婚より3年後の2018年のことだけれど。
♢
この映画をみて、いろいろな感情が沸き起こった。
まずは、ひとを救うためにあるはずの宗教が、ひとをがんじがらめにして苦しめていることのつらさ。
ヴィンセントもカソリック色の強いアイルランドの西側で生まれ、離婚が許されず苦しんだ母親をみて育った。
そんな話をよく聞いていたから、ひときわこの映画のストーリが響いた。
だから、一緒に観たかった。
これはアイルランドに限った話ではなく、同じ時代イタリアなどカソリックの国では似たようなことがたくさん起きていたという。
また、エイズ感染者への激しい差別は、80年代を生きたものなら、みな覚えているだろう。
そして、これは過去の話ではない。
だって、今、アメリカでは、妊娠した女性から堕胎の権利を奪おうという動きが進んでいるから。
なんでなんだろう。
どうしてこんな原理主義的な発想が生まれてきてしまうんだろう。
また、妊娠させた側の罪業はどこにあるのか。男女の不公正さへの怒りもある。
もしも婚前交渉が、性行為の快楽を得ることが、罪だというならば、男はなぜ罰されないのか。
それにより妊娠したことが罪ならば、なぜ生殖について教えないのか。
2つの性が関与しなければ起こり得ない妊娠を、婚前というだけで罪とするなら、双方の性を引きずり出して罰さねば嘘だろう。
カソリックにおいて、なぜ、女ばかりが避妊を許されず、望まぬ妊娠を罰され、堕胎を許されないのか。
もう1人の当事者である男はどこにいるのだ。
そして、もうひとつ考えたこと。
それは「赦す」ということ。
それについては数年前にも書いた。
この映画のなかで、私がいちばんパワフルだと思ったシーンは、フィロミーナが「私はあなたを赦します」といったときだ。
怒りにふるえ赤く燃えるマーティンとは対照的に。
静かに、そう、ガスの炎が青く燃えるように。
テンペストの中のプロスペローのごとく、フィロミーナが赦しをもって自分が抱いてきた憎しみから自由になろうとした、のかはわからない。
でも、少なくとも、彼女は許すことで、恨みを昇華させたかったのではないかと思う。
実際のフィロミーナは、いったんは恨みつらみで信仰を捨てたが、70歳を過ぎてふたたび教会へ通うようになったそうだ。
それだけの深い痛みを与えたものを赦すことができた彼女は、仏教でいう「空」に近づいたのではないかと思う。
すべてから解放された場所に。
すべてを超越した次元に。
もしも自分がフィロミーナと同じような経験をしたのなら。
私はその最後に「赦す」ことができるだろうか。
とても素晴らしい映画、そして実話だった。
シカゴの空港で偶然noteで読まなかったら、知ることすらなかったと思うと、その遭遇がとてもありがたい。
こうして書き起こすうち、ふと、淀川長治さんのことを思い起こした。
淀川さんだったら、いったいどんな解説をされたであろうか。
サヨナラ。サヨナラ。サヨナラ。
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