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セントポールの月


東京オフィスから出張でロンドンに来た女性と親睦で食事に行った。
今から5-6年ほど前のことだ。

直接仕事の関わりはないが、東京から誰か来るという「イベント」は、いつも3000人中たった3人しかいないロンドンオフィスの日本人が集まる動機づけでもあった。

彼女はタイミングよく冗談をいっては、コロコロと自分も笑ってしまうとても楽しいキャラクターで、これだけアタマの回転がいいのだから仕事もサクサクこなしてるんだなと察することができた。

「ロンドン本社に来るのこれで3回目なんですけど、いつもヒースローとオフィスの往復で終わっちゃうんですよねー。一度はセントラルロンドンに行ってみたいんですけど」

彼女は足が不自由で、普段は車椅子、短い距離は両手に杖をはめて移動する。
だから私たちは気を遣ってホテル近くのパブで集まったのだが、おそらくいつも同じような配慮でオフィスのあるロンドン郊外から出ないまま終わってしまうのだろう。
そして、それが嫌だと言わない、いや、言えないのかな?

「じゃ、明日にでも行っちゃいます?セントラルロンドンに」

私は思わず誘っていた。

自分も、出張でせっかくアジアや南米まで行ったのに、スケジュールの都合で空港と会議場しか見ないなんてことがよくあったから、彼女の気持ちがよく分かった。

何か起こってはいけないと思う一方で、東京からはるかロンドンまで出張に来られる人が、ヒースローまで来たというのに、その先のたった数キロを諦めてしまうなんてもったいないと思ったのだ。

彼女はとても小柄で軽いし、折り畳み車椅子で来ていたので、私ともう一人の同僚がいれば階段も段差も大丈夫だろう。

「いいんですか?ホントに?」

彼女の顔が輝いた。

5時ダッシュする約束を交わしたその翌日、私はズボンにリュックで会社に行った。
両手が空く格好で、動きやすく。

でも、そんなの杞憂だった。地下鉄でも、バスでも、鉄道でも。

一緒にいる私たちよりも先に、他の乗客たちが「ヘルプいるかい?」と彼女に直接声をかけていた。
知らない人同士が車椅子ごと彼女をひょいっと持ち上げてくれたり、私が車椅子を運んでいるうちに、サササッと彼女をお姫様だっこして階段を下りてくれた若者もいた。

彼女が頬を紅潮させながら、この「ただ、公共交通機関でセントラルロンドンに移動する」という冒険を心から楽しんでいることが伝わってきた。

「うわあ、本物のビッグベン!すごい、まさか見ることができるなんて思ってなかったし、それに、私、汗ひとつかいてない気がする」

ウエストミンスターの地下鉄の駅から地上に出たとき、そのすぐ目の前にそびえるロンドンのシンボルを見上げながら、彼女がいった。

私たちもびっくりだった。気づいたら、もうビッグベンに着いていた。

「どうしようと思う前に、誰かがもう助けてくれていて。申し訳ないとか思う前に、“Enjoy the evening!”とか言い残してカッコよくいなくなってくんですよね」

彼女のいう通りだった。

階段や段差を目にした時には、もうどこからか救いの手が差し出されていて、そしてそれを片付けると、皆あっという間に笑顔で去っていくのだ。

小気味いいくらいに、やってやってる感がない。

だから罪悪感も生まれない。



「きゃー!これ、ハリポタに出てくる橋ですよね!ああ、もう、本当に今夜のすべてが感激です!」

グローブ座にあるパブで食事をした後、テムズ川を渡りながら、彼女は夜景を映す川面と同じくらい目をキラキラさせていた。

「まさか、ゆうべ話したことが、今日には実現しているなんて。私、ロンドンに来てるって実感がちゃんとわきました。ありがとうございます」

お礼をいいたいのは私のほうだった。

「いやいや、今夜、一緒に冒険させてもらって、私こそ逆にロンドンのやさしい顔を知ったような気がしてます」

こんなにこの街が他者への思いやりを含んでいたなんて、まったく思いもしなかった。
みんな早足で目的地に急いでる人ばっかりだと思ってた。

ミレニアムブリッジを渡り切ったところで、セントポール寺院を背景に3人で写真を撮った。

月がうまく入りましたよ、と撮ってくれた観光客が笑顔でいった。



その後、私は東京オフィスにいくチャンスはないが、一緒に出掛けた同僚は日本に出張に行くたびに彼女と食事している。

「会うたびに、彼女、あの夜のことが忘れられないって言ってますよ。私たちも、すごく楽しかったですよね」

そう。
私たちにとっても、あの「冒険」は普段何も考えず使っているただの公共交通機関を、知らない人と交流できるコミュニティに変えてくれた、楽しい時間だった。

あのとき、いろんな場面で助けてくれた人たちは、きっとそのことを覚えてすらいないだろう。

けれど、そんな小さな思いやりが、受けた側にはずっと暖かく残るのだ。

自分もそんな暖かいなにかを、さっと気負わず差し出せるかな。
そういうゆとりを持って暮らせたらいいな。

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