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A子くんへ

就職活動、まいにち大変だよね。おつかれさま。
私はたいていキミのお母さんとメッセージをやり取りするだけだけど、でも、応募している会社や、入社試験の話などをききつつ、遠くロンドンの空の下から応援しています。

今日はせっかくの面接がうまくいかなかったから、ちょっと落ち込んでるんだって?

私も、キミのお母さんも、今から四半世紀も前だけど、リクルートスーツの鎧をつけて就職戦線の最前線にいました。
私は、自分でいうのもなんだけど、結構成績がいい学生で、英語も話せるなんてちょっと思い上がっていたから、その分、とつぜんの現実―資料請求のハガキを出しても反応がないことや、面接でダメ出しばかりされることにくたびれてしまって、一時期スーツに腕を通すことができなくなりました。

「結婚したら、仕事を続ける予定ですか?」
「うちの仕事はねえ、女の子には向かないと思うんだけど。事務職じゃだめなの?」

そんな質問にも疲れてしまったし、自分を否定されたり、無視され続けることにも疲れてしまった。

そんなときね、キミのお母さんが、電話をくれたの。

「ワタシさ、XX保険を受けたいと思ってるんだけど、ひとりだと心細いから一緒に応募しにいってよ」

部屋からでられなくなっている私をひっぱり出すために、すねちゃってる私を誘い出すんじゃなく、お願いしてきたの。
うまいよねえ。

しぶしぶと私は一緒に説明会に行って、業界について何もしらないまま面接を受けた。
そして、まんまと同業他社のなまえを間違えて、

「ほんとは保険業界に興味ないでしょ、君」

って面接官にバッサリいわれて不合格になった。

そりゃあまりに用意不足、勉強不足だもん、落ちるよねえって二人で大笑いして。だけど、その一般職の試験を受けにいって、なんだか憑き物が落ちたの。

当時はエリア総合職っていうのはなくて、男女雇用機会均等法ができて、女子学生が総合職に応募することがようやく少しずつ社会的に認められはじめたころだった。
そんななか、英語を使う仕事がしたい、やがては海外で仕事がしたいとしゃにむになって総合職を受けては落とされていた私は、そこから一般職の試験も受けることに抵抗がなくなった。

結局、キミのお母さんと私は、おなじ保険業界の別の会社に一般職として内定をもらった。
あのとき引っ張り出された会社の面接で、第一志望を訊かれ、いい間違えた会社、その名前を間違えた会社に私は就職した。
ふふふ。さすがに自分の会社になってからは、社名も略称もちゃんと言えるようになったけどね。
今でも思うけど、どうしてその会社に入れたかといえば、きっと第一志望とか同業他社の名前を訊かれなかったからじゃないかしら。

もしも、キミのお母さんがあの時電話で私の憑き物を落としてくれなかったら、私はひきこもった部屋からでられないままだったかもしれない。

この前、いまキミが内定をもらってる会社についていろいろ話をしているときに、

「なんでママとお友達なのか不思議」

っていったでしょ。
たしかに、キミのお母さんと私はとっても違うタイプだもんね。

でも、何十年も昔の2月1日。中学の受験会場で目の前に座ったキミのお母さんと言葉を交わし、同じクラスになって以来、私たちはいろんなことが違うからこそずっとお互いにひかれあって、支えあってきたんだと思うんだ。

初めてキミのお母さんのいえに遊びに行ったときには、門前の大きな桜の大木に圧倒されてしまった。あまりに立派なお屋敷だったしね。
擦り切れたジーンズにボロボロのトレーナーで遊びにくる私のことを、キミのお祖母ちゃんは、目をまん丸にしながらも、それでもいつだって歓迎してくれた。
でもキミのお母さんはずっとジーンズ禁止。
たしか履いてもよくなったのは、高校の林間学校に行くときと大学生になったあとだった。

中学校の時、バイオリンケースを出しただけで飼い猫が逃げ出すくらいの私の演奏を、なんとか器楽の試験を切り抜けられるくらいに鍛えてくれたのも、ホルストの「惑星」のカセットテープで私にクラシックの世界を開いてくれたのも、キミのお母さんだよ。

名古屋まで、まだハイハイし始めたばかりのキミの顔をみにいったとき、一緒にスーパーに買い物に行った。キミのお母さんがトイレに行く間、ずっしり重いキミを抱え、食料品の袋をもって待ちながら、これを毎日しているのかと思ったら頭がさがる思いだった。
あの頃は、スーパーにショッピングカートなんて置いてなかったし、トイレにベビーチェアもなかったから、びいびいと泣き叫ぶキミをなだめながらのワンオペ家事は、過酷のひとことだったろうな。

お父さんのお仕事で、フィリピンやインドにいかなきゃいけなくなったとき、不慣れな環境のなか、英語で汗をかきつつ、あまり家にいられないお父さんの代わりに家族を守り、外国人のお手伝いさんをつかうことに四苦八苦しながら、キミと弟をしっかり育てた。
そして、日本に戻りキミたちふたりが手がかからなくなってからは、また再びお仕事をしつつ家事もこなしてるんだよ。スゴイと思わない?

私は自分がしたいことだけを追いかけて、確かにアメリカやイギリスで働くことができた。
でも、面倒を見るのは自分だけだったもの。

お互いが、日本やフィリピンやインドやアメリカやイギリスと場所を変えながらも、この何十年もの間、私はキミのお母さんとつながり続けることができた。
そして、そのおかげで、今、よけいなお節介ながらも、キミの就職活動に、将来に、そしてお母さんの子離れに、首をつっこませてもらえている。
なんとありがたいことだろう。

今日の面接の失敗は、もう過ぎたことだから、落ち込むだけおちこんで、深海の奥深く、水の底まで沈んでも、最後にはその水底を蹴って、海面まで復活してきてください。
そしたら、次のチャンスのときにはどうしようかって切り替えができると思うから。
どうしてもそれが難しい時、キミにも、「一緒につぎ受けようよ」って電話をかけてきてくれる、キミのお母さんのような友達がいますように。

だいじょうぶ。
だって、キミのお母さんそのものが、あなたにはついているんだから。

そして、世界が落ち着いたら、今度こそ二人でロンドンに遊びにおいでね。
まってます。

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