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第11回『ほんとうのわたしを見せてあげる』――大藤凛氏の作品について

 大藤凛さんという人の『ほんとうのわたしを見せてあげる』という作品を読んだ。


 演劇団に所属 している大学六年生、豊橋まなかという主人公の視点から語られる中編小説である本作。女性一人称視点という点ではぼくとどこか重なるような気もした作品で、興味深く読ませていただいた。

 まなかは幼いころから演劇に打ち込んでいて、それを応援してくれていた母親の存在が彼女の心に根深い記憶として残っている。母親はすでに他界しており、まなかは演劇から身を離しているという時点から物語は始まり、恋人との情事に明け暮れながら酒に溺れている彼女の生活は、退廃そのものだった。

 まなかは恋人からほかの女の匂いを察知し、それをきっかけとして立ち上がり、もう一度演劇の世界に身を投じる決心をつけることになる。


 おおざっぱなあらすじはこのようなものだ。しかし、この作品の特徴はストーリーラインのほかに、随所で挟まれる夢のような幻想世界での「もうひとりのわたし」や「黒い影の少女」が挙げられるだろう。とくに黒い少女は、幼い頃の思い出の品が父親から送られてきた後から主人公に見えるようになった(そしてほかの人間には見えない)存在だ。彼女と黒い少女は、言語的なコミュニケーションはできないものの、意思疎通に四苦八苦するほどでもないというような距離感にある。

 読み進めていった結果の解釈としては、黒い少女はある種、主人公がこれまで人間関係のなかや演劇のなかで演じ、そこに取り残してきた過去の自分の集合体であり、まなかはその過去に支えられ立つことにより「自分」を取り戻していく。彼女はなんの支えもなく、ただ自分の力で現実に立ち向かう。それを彼女は「ほんとうのわたし」と呼んだ。


 さて、ぼくがこの作品で「黒い少女」などを特徴として挙げていることにはもう一つの理由がある。それは、主人公がこの少女と出会う際や、それ以外にもたびたび訪れる夢や回想シーンも幻想的かつ意識の混濁がみられるような一人称が印象的だったからだ。一人称というと、非常に一般的には視点人物の視界を通して読者が物語を読んでいくという仕組みなのだが、本作の一人称はそういうものではなかった。彼女が見ている視線というより、彼女が陥っている状況を客観視するような書き方で進められる文体は、一人称でもありながら三人称のようでもあった。自信を俯瞰しながらも、感情の濁流が人物に襲いかかってくる様子がこれでもかと描写されていた。

 作品の大部分がこういった描写に満ちていて、時間的にはゆっくりと進む物語でも、スリリングに読むことができた。これはひとえに作者である大藤凛さんの技量ゆえであろうと思う。

 簡単だがこれを感想としたいと思う。とてもおもしろい小説だった。


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