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第9回 曲がった電車――福知山線脱線事故から、灰燼の街たちについて


 最近、ぼくが調べていることが4つある。ナチスドイツのホロコースト満州に送られた日本の開拓団チェルノブイリ原子力発電所事故、そして関東大震災における朝鮮人虐殺

 いずれにしても人類史に残る悲劇として記録されていて、等しく記憶されているとはいえないのかもしれないが、ともかくとして優劣をつけるような関係性にはない事象たちだ。

 去年には広島原爆について調べる機会があったのだが、ぼくは先日その広島に行って文学フリマ広島に参加した。その模様に関しては記すことはないのだが、ともかくとしてそこから始まった1週間の旅は、兵庫の尼崎、福知山線脱線事故の現場を経由した。ほかには人と防災未来センターピース大阪平和国際平和センター、大阪城の砲兵工廠化学分析所跡、もちろん広島の平和記念資料館大和ミュージアムなども訪れた。

 それらのなかでも、特異な場所であったのが福知山線脱線事故の現場跡地に作られた、祈りの杜という慰霊施設である。うろ覚えの人もいることだろうし、先に事故の概要から説明しよう。

 福知山線脱線事故とは、2005年4月25日に発生したJR西日本福知山線、塚口ー尼崎駅間の事故のことだ。原因は70km/h制限のカーブを120km/h近くのスピードで進入した結果であり、1号車から5両目までが脱線し、先頭部分は近くのマンションに突っ込むこととなった。乗員乗客合わせて107名もの命が失われた大惨事だった。

 ぼくは当時10歳になったばかりの少年で、ちょうど熱を出して寝込んでいたリビングにてニュースを見ていた。一報を目にしたとき、とうとう熱のせいで悪夢まで見たのかと思った。この事故は本当にとんでもないことが起きたんじゃないだろうかと、子供みたいなことを思っていた。実際子供だったわけだが。


 この事故のことを何度も思い出すほどに、切羽詰まった記憶として貯蔵していたわけではなかった。神奈川県横浜市に住んでいるぼくにとって、この事故は遠く西の出来事でしかなくて、身内に被害に遭った人間もいなければ、しばらく電車が動かないという混乱もなかった。

 
 思い出したのは去年のこと、9月5日に起きた京浜急行の脱線事故がきっかけだった。神奈川新町駅のほど近くの踏切で発生した事故は、死者1名を出す惨事となった。線路内に取り残されていたトラックを轢いてしまったことが原因になったこの事故は、横浜市民であるぼくの生活圏において多大な影響をもたらしていた。最寄り駅は京急沿線であるし、なおかつ神奈川新町駅といえばぼくの祖父母が住んでいる街の駅なのだから。事故現場となった踏切も渡ったことがあった、もうずいぶん昔のことになるが、幼ながらに長い踏切で怖いなと思ったことを覚えている。生活のそばで起こった大規模な鉄道事故とそれにまつわる報道は、ぼくに少年のころの悪夢を思い出させるのに十分な制圧力を持っていた。

 そして、ぼくはさる2月、文学フリマ広島というイベントに参加するために広島へ赴いて、その帰り道に尼崎市にある福知山線脱線事故の現場を訪ねてみようと思ったのだ。グーグルマップで調べれば、歩いていけないこともない距離に現場はあったし、そこは慰霊のための施設、祈りの杜という建物があるというのだ。これを知れば行かない手はない。ダークツーリズムを掲げていたその旅の一環として申し分ない場所だと、訪ねる前のぼくは考えていた。


 行った後だからこそ言えるのだが、その場所は旅の間訪ねたあらゆる場所のなかで、もっとも印象に残る空間を作り上げていた。

 JR尼崎駅から20分近く歩くと、ドーム状の屋根に囲われた祈りの杜が見えてくる。尼崎の古い家々のなかで、それはひときわ荘厳に立っているように見え、事実として周囲では最も新しい建造物だった。敷地内は撮影がいっさい禁止されていたものの、パンフレットをいただくことができたので、それに準じて記述していこうと思う。

 まず敷地内のほとんどは屋外空間となっている。閑静な住宅街のなかにあり、そこには開けた空があった。設置された泉も清らかに響いていた。自分の足音がここまではっきりと知覚できる場所も、そうはないような気がした。というより、生きている者を珍しく思ってしまうほど、時間が止まったかのような雰囲気が漂っているのだ。ドーム状の屋根の横に庭のような空間が広がっていて、その間の舗装された細い小道を歩く。すると円錐状の慰霊碑が立っており、ぼくはそこで手を合わせた。慰霊碑の横には階段が設置されていて、その先には例のドーム状の屋根の下に辿り着くという設計だ。ぼくはこのドーム状の屋根の下にどんなものがあるのか、詳しく調べたわけではなかった。正直にいうと慰霊碑があるということ以外はなにも知らなかったため、この階段のむこうにはなにが待っているのか、疑問符を浮かべながら足を進めた。

 階段の先にはお地蔵様が立っていた。入口のところで職員の方が紹介してくれてはいたのだが、ぼくはてっきり慰霊碑の近くにあるのだろうなと勘違いをしていた。事実は、お地蔵さまが立っていた場所は屋根の直下、とある建物の目の前だった。ドームに覆われるようにしてあったのは、直方体の白い建物。見た瞬間はそれがなんなのか分からなかったのだが、近くのパネルなどを見てすぐに理解した。

 それは、脱線事故の際に車両が衝突した、あのマンションだったのだ。


 マンションの北側(電車が突っ込んだ側)には大きな事故の痕跡が見られ、柱にはひびが入り、地下へと繋がっていた駐車場は衝撃で歪んでいた。巨大建造物の土台をこうも揺るがした衝突の威力は、言葉で語られる以上の説得力でぼくを恐怖させる。そのまま、車両が埋まっていたのだという区画を見ることができた。人々の救助作業のあと、そのままの状態で残されているのだという。

 物理的に事故の証というものがここまでしっかりと残っていたという事実に、ぼくは非常に驚いていた。というのも、この祈りの杜は事故を起こしたJR西日本が作った場所なのだ。加害者側がこの悲劇を残すとき、シンボリックな空間をここまで作ってみせるものなのかという衝撃は、筆舌に尽くしがたかった。

 のぼせ上りそうなほど、幼かったころの報道の記憶と目の前の事故現場を行き来していると、遠くから轟音とともに風が吹きつけてくる。塚口方面からやってきた電車が、尼崎に向かうためのカーブを曲がっていく姿が見えた。決して脱線することはなく、制限速度をしっかりと守った安全運転だった。ぼくはその列車を見て、「電車が過ぎていった」と感じることはなく、むしろ「電車が脱線しなかった」と倒錯を抱いてしまった。
 この祈りの杜では、電車が過ぎ去っていくことは日常でもなんでもなく、あの日脱線事故を起こさなかったという可能世界を顕現してみせるのだ。その後悔の念はお地蔵様の横に灯った線香の香りに乗って、どこまでも風に乗っては空に消えていく。その青のむこうに、あの日のぼくへ映像を届けてくれた報道ヘリを探したけれど、そんなものが飛んでいるはずもないのだった。

 地下に潜った先にある資料室には、JR西日本の反省色に彩られた展示が施されていた。ぼくはそれらの文章を読みながら、別の事件のことも考えていた。
 JR西日本は事故当時、安全思想の欠落があったという説明がなされていた。これと同じような報告をもたらした事件がある。ソ連時代の、チェルノブイリ原子力発電所事故だ。

 1986年4月26日――奇しくも日付は福知山線脱線事故の次の日にあたるのだが――その日の未明に起きた原子炉の爆発から始まる一連の事故の連鎖は、国際原子力事象評価尺度におけるレベル7に相当する地獄を作り上げた。炉心崩壊から火事の消化のためにコンクリートの投入、そのコンクリートが熱を帯び炉心融解が発生、水蒸気爆発を避けるために建屋内に溜まった水を排出、核燃料を冷却するために液体窒素を注入、そのため原子炉地下までトンネルを掘らなければならなかった。ほかにも多段階において、この原子力発電所事故の封じ込めに多くの人員――これはほとんど同時に人命を意味する――が参加することとなった。
 チェルノブイリ原発のそばに広がっていたプリピャチという街は、現ウクライナのキエフ近郊にある。原発事故直後から消防隊員をはじめとして、医療機関の関係者にも健康被害が出た。しばらくすると子供を含め多くの甲状腺がん、市民にも放射線被害が確認されたという。
 事故の原因としては、91年にソ連原子力産業安全監視委員会の特別委員会が出した報告書にて黒鉛減速沸騰軽水圧力管型原子炉の欠陥(現在、これらは全炉で改善されているので安心してほしい)とソビエトの安全思想の欠落があげられている。当時の現場責任者たちは罰を受けてはいるが、彼らにはどうしようもなかった制御棒の欠陥や、根本の安全規定が非常に脆弱なものでもあったのだ。


 わき道に逸れてしまったが、JR西日本の展示には脱線事故に至るまでの会社が晒されていた状況などがまとめられていた。私鉄各線との競争が激しく、さらには阪神淡路大震災からの復興と事業の立て直しなどによって、経営陣はかなり利益重視の考え方に染まっていたという。そして、結果として乗客からの遅延のクレームなどを避けるようにするため、ダイヤを乱した運転手に日勤教育という半ば見せしめのような形での懲罰を与えてるという結果になった。こういった、現代でいうところの「パワーハラスメント」的体質はチェルノブイリでも同じくするところがあった。原発事故の際に原因となった制御棒を操作していた技師たちも、当時のジアトロフ副技師長から恫喝されるようにして作業を行っていた。双方が末端の起こした事故であるという点、そして上層部の安全思想の欠如は、重なるところがあるように思える。


 また、ぼくがもう一つ想起せざるを得なかったことは、これがどちらも街のすぐ近く、むしろ内側で起きたという点だ。考えてみれば当然で、原発も電車も、人間が住んでいるから必要なものなのだ。

 
 現代の生活において、鉄道はなくてはならない存在だ。もちろんそんなことは承知のことだろう、都市圏に行けば行くほどこの比重は増していくわけだ、人口の問題を背景として。こういう表現をしなければ人は意外と忘れがちなのだが、陸上交通において一度に多くの人や物を運ぶことができる手段として鉄道には一日の長がある。人間が大量に住んでいるから鉄道が必要なのであって、都市化の発展とともに鉄道網が整備されていった日本の歴史を考えれば、人口と鉄道は切っても切れない関係で結ばれている。
 皮肉にも、脱線した車両が突っ込んだのはそういった人々が住んでいる分譲マンションだった。生活者を乗せ走っていた電車は、生活の場へとなだれ込んだのだ。


 人口と鉄道の問題として思い出されるのはホロコーストの問題でもある。ぼくは今週「シンドラーのリスト」という映画についての感想を書いた。ナチスドイツのユダヤ人虐殺に関する映画で、作中にも鉄道の描写が多く映されていた。それが意味するところは、アウシュビッツ絶滅収容所への移送であり、事実上の死であった。実際のアウシュビッツでの撮影も行われていたこともあり、この映画における列車の役割は色濃く観客に印象付けられることになる。

 ユダヤ人収容所といっても、年代や場所によって大きく性質が異なるものではあるが、統一されるべき特徴としては「(ユダヤ)人がたくさん住んでいる」という極めて単純なものであった。そのため移送には鉄道が用いられることになるわけだ。鉄道というと、戦時中は物資輸送にも使われいた、というかむしろそちらこそが本来の用途であった。大戦中、特に戦地では鉄道こそ軍事的性質を帯びた移動手段であり、生活の象徴といえるものではなかったのかもしれない。


 軍事色の強い鉄道としては、南満州鉄道株式会社というワードを思い浮かべることができる。大日本帝国が経営していた、大連から新京(現在は長春)をはじめとする満州各地に鉄道網を伸ばした会社である。ホロコーストと重ね合わせるようにして言うのであれば、新京のさらに北、ハルビンという都市で行われていた人体実験に関しても触れておきたい。最近話題になった、『僕のヒーローアカデミア』の「マルタ」という人間の呼称問題、もとい731部隊と聞けば察しが付く人も多いのではないだろうか。

 満州国という国、戦前関東軍が起こした満州事変後に建った大日本帝国の傀儡国である。この国には当たり前ではあるが建国当時からしっかりとした鉄道網が張り巡らされており、その網を駆使して各地に日本からの開拓団などを派遣した。本土農村のコミュニティがある程度維持された状態で送り込まれていく開拓団は、最低限の武装もしており、当時の日本が満州国に対して盾としての役割やあるいは資源を送るバックヤード的な役割を期待していたことがよく分かる。もちろん彼らの作り出した資源は、また列車に乗せられて然るべきところへと送られていくわけだ。
 そんな土地の都市、ハルビンで現地中国人などに人体実験を行っていた731部隊は、被験者のことを「マルタ」という隠語で呼称していたという。人間性を剥奪し、番号を振った「マルタ」として現地民を殺害していく経緯は、おぞましいの一言に尽きる。そして、そのハルビンの「マルタ」たちの収容所も駅からそう遠くない場所に作られていた。731部隊の研究所跡が博物館になった現在でも、立地の関係上住宅街や団地がすぐそばにあるという様相を呈している。鉄道網は人の死へといざなった、そして、人はそこに生きていく。

 ここまでのハルビンの問題は東浩紀という哲学者の議論をかなりの量拝借する形で展開されている。チェルノブイリやホロコーストについて調べているのも彼の影響があってこそでもある。それは隠しても仕方がない、上記の話にさらに興味がある人は『ゲンロン10』という雑誌に収録されている『悪の愚かさについて』という論考を読むことをお勧めする。

 もっとも、ここで触れられていたことからぼくが独自で調べ、ここに書いている情報がほとんどではあるのだが、ともかくとして参考としてあげないわけにはいかない文章だ。このnoteの数万倍刺激的な議論であることは保証するので、各種ショップのチェックをお願いしたい。


 さて、ここからはぼくが住んでいる街の話をしよう。というより、帰ってきたというべきだろうか。

 横浜という街は、日本において初めて鉄道が走った街なのだという前提から、福知山線の生活手段から生活空間への悲劇という現象をもう一度考えたい。


 横浜は開港以来貿易の中心地として栄えており、関税館の資料を見れば分かることだが横浜の貿易品、貿易額は日本の辿ってきた潮流をそのまま写しだしている。そこからは、街の特異性などはさほど見出すことはできない。地方の特産品に当たるようなものを作り出せているかといえば疑問ではある。が、それでも時代のメインストリームに当たる品物を作ってきたのだと考えればそう落ち込む話でもない。ともかくとして横浜は近代以降、栄えていた。この点においてはまあ、屈折していない反論は飛んでこないだろう。

 そんな明治以降の横浜に降りかかった苦難として、二つの事象が挙げられる。一つは関東大震災、もう一つは第二次大戦時の空襲だ。
 
 関東大震災の際、横浜は西区を中心として南区に至るまで、火災による大きな被害を受けている。これは当時主流であった木造建築が要因となっていることは明確で、残ったのは鉄筋でできたわずかな建物だったという。ぼくが調べていると書いた、このときの朝鮮人虐殺はこの鉄筋でできた建造物に警察署が含まれていたことによって肥大化したという見解があるのだが……それはここでは展開しないでおこう。副産物的ではあるが、その事実はぼくの知るところであったし、木造建築の密集地帯は現在に至るまで地震被害が心配される場所の特徴として確固たる地位を築いているといえる。


 そして二つ目の苦難として横浜大空襲がある。1945年5月29日にB29が襲来し焼夷弾を40万発以上を投下していった無差別爆撃だ。全国的に教えられていることではないだろうが、横浜市民の小学生などはこの空襲について大なり小なりの時間をかけて教わっているはずだ。関東大震災からわずか20年足らずでやってきたこの空襲は、またも西区から南区に大きな被害を出した。なぜか。答えは単純で、木造建築が多く建っていたからである。横浜市民は震災によって多くの家を火事で失い、親しい者たちが死んだ後、もう一度木造建築を建てた。そして今度は天から降った炎によって、生活の場は燃やされることとなった。これを無学習と批判することは簡単だが、当時の経済状況などを鑑みれば、致し方ないことだとも考えられるだろう。


 ぼくは京浜急行沿線に住んでいる人間だ。震災や空襲で焼けた場所として挙げた南区と西区は、ぼくの生活圏とぴったり一致する。横浜大空襲について調べていると、黄金町駅周辺の被害が大きかったという記述も見られた。ぼくの母親が働いている駅の名前だ。その母親は幼い頃、神奈川新町駅の街で暮らしていた。ぼくたちの生活に、過去の死はこんな近くに眠っている。横浜の街には、人が死んだことを示す慰霊碑はあまりない。震災記念館は古い時代にはあったが、とっくの昔に閉じられてしまっている。戦災についての博物館なども、中心に据えるような形では作られていない。この街の負の遺産、愚かな記憶を継承する場所は驚くほど少ない。あるのは輝かしい発展の歴史と、「みらい」へ向かって輝くビルの数々である。もともとが埋め立てて作られた街なのだ、記憶を埋めることも簡単だということだろうか。
 詰まらない皮肉だ。忘れて欲しい。

 ぼくは福知山線脱線事故の祈りの杜に訪れたとき、負の記憶を生活のなかに内包している様子に衝撃を受けていた。あの空間では生活のために走る電車が起こした災いを、限りなくそのままの状態で保存していた。物的条件だけでなく、平然とドーム屋根の横を通り過ぎていく「生活」を慰霊施設の記憶装置、一種の展示物としての効果を持たせていることが、いかなる負の遺産にもない想像力を助長する。
 横浜市民には今日も木造住宅に暮らしている者がいる、ぼくだってその一人だ。尼崎では、今日も福知山線に乗り祈りの杜を通り過ぎていく者がいる。それぞれに生活がある。都市には人が住んでいる。ときおり、そこでは人が死ぬ。プリピャチにもアウシュビッツにもハルビンにも、人間がたくさん住んでいた。人が生活していたから、そこでは人が死んでいく。そしてまた、人は人が死んだ土地に住んでいく。なぜなら鉄道網の整備が、生きている人間の利便性をもたらすから。


 それを忘れずに、失われた生活を示し続けている祈りの杜に似た仕事がしたい。小説を書いているぼくが思ったのは、そういうことである。
 なにを言うのでもなく、ただ静かに、あの場所は風景だけで死を想わせた。
 
 福知山線脱線事故で遺った負の遺産は折れ曲がった電車ではなく、ただ静かに滅びた生活の城。そこを横切る、あの日よりもゆっくりと進む電車。
 当たり前ではない電車の音のなか、ぼくはただ手を合わせた。


 福知山線の事故では107名の命が失われた。直接の原因は電車が無理にカーブを曲がろうとしたからだ。神奈川新町の事故では1名の命が失われた。直接の原因はトラックが無理にカーブを曲がったからだ。


 最後にこぼれ話をしておくと、ぼくの最寄り駅は京急のなかでもトップクラスに人身事故が多い駅だ。ぼく自身、何回か遺体の処理現場を目撃したことがあるくらい。
 考えてみれば鉄道と死の交差点というものは、人身事故にあるのだ。または、ぼくたちの生活に関わり、かつとても身近な死というものは鉄道の人身事故なのだ。と言い換えればいいだろうか。

 列車を見て死を想ったあの空間は、きっとぼくたちの生活と地続きで繋がっている。これだけの確信をもって、文章の終わりとしたい。


 
 結論が出ない凡庸な話で申し訳ないが、ぼくが考えたことの大部分はこういうものだった。旅の記録の一つとして、この文章がいつかなにかの種になることを祈るばかりだ。


 また時間があれば旅の話をしようと思う。徒然なるままに書いている文章だが、こういったことが、ぼくの書く小説に繋がると信じて、たまに覗きに来て欲しい。
 それではさようなら。また会いましょう。

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