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第7回 『シンドラーのリスト』――名前のない赤色と強制収容所

 スティーヴン・スピルバーグ監督作品『シンドラーのリスト』を観た。


 この映画は1993年に公開された映画で、ナチスドイツによるユダヤ人虐殺、いわゆるホロコーストについて描いた映画である。主人公のオスカー・シンドラーは軍用の琺瑯容器工場を経営していた資産家で、経済合理性の側面からゲットーにいたユダヤ人を雇用し商業的成功を収める。しかし、彼が用いていたユダヤ人が、住んでいたゲットー(ナチスドイツの占領下でユダヤ人が出ることを許されず、強制的に移住させられた区画。街のなかに壁で囲われるような形で作られ、衛生環境なども劣悪な環境だったことでも知られる)からプワシュフ強制収容所へ送られてからは、彼の目的は工場の発展ではなくユダヤ人を守るというものへと次第変化していくことになる。ユダヤ人たちを待っていたのは収容所内での残虐な仕打ち、史実では拷問や殺戮が繰り返され、本作のなかでもそのような描写はこれでもかと映し出されることになる。

 皮肉にもドイツ軍の敗退が続くことによって、プワシュプからさらに高効率で処刑を執行できるアウシュヴィッツ絶滅収容所へと移送されることになるユダヤ人。シンドラーは少しでも多くの命を救うべく、彼の工場の従業員として必要な人物の「リスト」を作り、軍部との交渉を始める。


 とまあ、あまりも有名作のため、あらすじに関してはその道のプロに任せたくもなるのでこのくらいにしておこう。今回はホロコーストを扱った映画でも、もっとも著名な映画の一つ『シンドラーのリスト』についての感想を書いていこうと思う。シネフィルのみなさんを唸らせるようなことは書けないかもしれないが、ぼくなりに感じたことはあるので備忘録的に使っていくとしよう。



 考えうるなかでもっとも理不尽な死の一つに、「殺される理由が存在しないのに殺された」というものがあるだろう。もちろんこんなもの人によって全然違う結論になるとは思うが、ともかくとして一つの一般論として聞いて欲しい。死に理由がない、ということはやるせないことだ。ぼくは去年『伊勢湾台風物語』という、名前の通り伊勢湾台風に見舞われた2つの家族を描いたアニメーション映画を観た。これも同じくして、唐突にやってきた台風によって一家のほとんどが死に至るという、理不尽極まりない死が描かれた作品だった。災害による死には、恨む対象もなければ逃れるすべもない(少なくともこの映画では)ように見えた。悪いことをしたから罰せられたわけでも、判断を誤ったから報いを受けたわけでもなく、一家のペットに至るまで、ともかく根こそぎの命を奪い去っていく嵐に関しての物語だった。

 もちろん『シンドラーのリスト』は災害を扱った映画ではない。ホロコーストによって殺された人間は、同じく人間によって殺された。しかしながら、加害者たるドイツ軍人たちには彼らを殺すにあたう理由が存在したのか。この問いは作中でも触れられることになる。プワシュプ強制収容所所長である、アーモン・ゲートが収容所にいたユダヤ人をランダムに射殺していく様子などが描写されており、彼のメイドはその様子をシンドラーに訴えている。「彼のやることには理由がない」と。作中で続くことはないものの、付け加えるのならこんなことが言えるのではないか。「殺すのなら、誰でもよかったのではないか」


 当たり前の話だが、ホロコーストは過去にのみある問題ではない。人間という動物が参照するべき、もっとも獣性が発揮された犯罪だ。ホロコースト関係でいえば、収容所へユダヤ人を移送したことで有名なアドルフ・アイヒマンのように、権力に強制されれば誰でも道徳に背いて行動をしてしまうということも、アイヒマンテストによってほとんど証明しているだろう。さらにいえば、度重なる無差別殺人などもアーモン・ゲートの所業などと重なるところがあり、いまもなお我々にとって非常に近いところにある問題としてホロコーストは扱えるだろう。

 もっと言えば、人が人を傷つけるときに本当に理由があるのかという問題にも、同じ視点が使える。殺人に限った話ではない。というより、悪について考えるとき、殺人などの問題を持ち出すこと自体がナンセンスなのかもしれない。我々のほとんどが、おそらくは殺人をしないで人生を終えるのだから。けれど、人を傷つけないで人生を終える人間はいないだろう。我々は生まれるときはその鳴き声を疎まれ、あるいは老いた際にはそのうわ言を疎まれるのだから。ゆりかごから墓場まで、なんと迷惑な動物だろうか。
 この考えはぼくの小説にも少なからず反映されているとも思う。あまりここで多くを語っていても仕方がないが、小説を書いている人間としてのぼくはこういった虐殺への興味というものを持っている。というか、そういった残虐性を人間が生活のなかで発揮しないわけがなく、古く歴史の物語としてだけ解釈することはできないだろうと思うのだ。こんなの、普通の話だけれど。

 映画の話に戻ろう。本作で効果的に使われている演出として、パートカラーというものがある。こんなものごまんと人が指摘していることではあるが……。戦時中の映像であると錯覚させるかのようなモノトーンに加工された画面に、ときおり炎の赤など印象的な色が挿入されるという演出のことをいう。『シンドラーのリスト』のなかでは冒頭の炎や、作中に現れる「赤い服を着た少女」にもこのパートカラーの演出が見られるのだ。その少女はゲットーから収容所へとユダヤ人が送られることになり、その混乱のなか街を歩いているシーンで登場する。シンドラーの心情が大きく変化することになる、作中でも重要であるこのシーン。その後彼女を含め、ユダヤ人たちはプワシュプへと送られ、いつ自分が殺されるのかも分からないような理不尽のなかに身を投じていくことになる。

 彼女が再登場するのはプワシュプ強制収容所が解体され、アウシュビッツ絶滅収容所へと人々が移送されるシーンでだ。正確に言えば、その際に証拠隠滅をするため、プワシュプで殺されたユダヤ人たちの遺体を掘り起こし、その屍を焼却処分するシーンにおいてだ。シンドラーが凄惨極まりないその状況(主に死体を掘り起こしていたのは、命令された生き残りのユダヤ人だった)を見ているなか、パートカラーで彩られた少女が運ばれてくるのだ。彼女は土のなかで腐敗していて、微動だにすることなく焼却されることになる。赤い服の少女は死んでいた。あっけなく、ただ意味もなく死んでいた。

 彼女がどんな人生を歩み、なにを思い、どんな名前をしていたのか。作中では一切分からない。彼女は名もなき少女だった。その姿が目から離れていかないほど、ただの少女だった。


 殺されてなお、土のなかから掘り起こさたのち今度は焼却される。このプロセスはプワシュプだけではなく、大量にユダヤ人などが殺戮された場所で行われたことでもある。ドイツの占領地に赴いては不穏分子を殺していったアインザッツグルッペンという部隊なども、ユダヤ人に数万人の死体を掘り起こしては焼却させ、それに携わった生きたユダヤ人も処刑していった。無駄な証拠隠滅のため、無用な犠牲を増やしていったのだ。

 ホロコーストについては様々本を読んできたし、映画もそれなりには見てきた。『シンドラーのリスト』は創作された映像のなかでもすさまじいクオリティを持っていた。こういったことに興味がある人はぜひ観て欲しい。純粋な映像作品としても高度でありながら、それ以上に悪の陳腐さについて考えさせられる作品だ。そして、それは同時に犠牲の無意味さにもつながる、危うい想像力を連れてくる。一般に人が死ぬことに意味があることは、ほとんどない。ただ、意味があるとするのなら、そこに生き残った者か、忘れない者がいるときだ。
 ぼくはホロコーストが起きたとき、生まれてすらいなかった。人が殺されるところをみたこともない。死が無意味であるということは、理論においてでしか理解していない。そんなぼくが、この人類史に残る大罪を記憶することについて、経験したことのない記憶の継承について考えていたい。そんなことができるのかどうかも分からないのに。けれど、その挑戦をしなければ過去と今はともかく、未来には少なからず悲劇的な運動が起こるだろう。過去とは、常に未来への礎にしかなりえない。未来を放棄した人間は、今も過去も関係がなく、ただ死ぬだけなのだから。

 現代日本においての死、あるいは移送と生活の問題については今週金曜日、福知山線脱線事故に関してのエッセイを通じても考えていこうと思う。徒然なるままに書いた感想にお付き合いいただけたことを、ありがたく思う。

 
 それでは、今日はこれにて失礼しよう、さようなら。

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