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何者かになりたかった彼

ほんの感想です。 No.28 田山花袋作「田舎教師」明治42年(1909年)発表

「田舎教師」を読んで、「平面描写」という言葉を知りました。広辞苑によれば、「作者の目に触れた事象を主観を加えず客観的に描く文芸上の技巧」とありました。

田山花袋は、「田舎教師」を書くうえで、この「平面描写」を用いたそうです。確かに、主人公の周辺の状況、例えば、徒歩通勤の途上、勤務先の小学校、寄宿先の寺の自室や、実家及び友人宅などの様子が、丁寧に描かれている印象を受けました。ということは、それらに充てられた文章の量がとても多い。

でも、それがよかったと思います。主人公の重苦しい心情が、そのままではなく、水で割ったカルピスのように、よい具合に伝わってきたからです。

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主人公の林清三は、旧制中学校を卒業すると、代用教員の職を得て、ある村の小学校へ赴任します。彼の家は貧しく、多くの同期生たちのように、進学することが叶わなかったのです。

将来について、清三も、友人たちと同様に、漠然とした夢を見ています。そして、経済的な事情で現実を受け容れ、このまま埋もれてしまうことを怖れるようになります。

教師となった清三は、同人雑誌に関わります。帰省した友人たちとも会って、中学時代のように文学や恋について語り合います。しかし、次第に考え方の差異が大きくなるのを感じていきます。

何者かになろうと、清三は、音楽学校の試験を受け、中学教員検定試験を受けようとします。しかし、それらは、失敗や途上で終わり、清三にダメージを与えます。そして、病が、しのび寄ってくる。

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「なりたい者」を思い描くことができず、それができないから、「なりたい者」に至る道も、わからない。だから苦しい。しかし、「なりたい者」を見つけるために、「試行錯誤は、必要」と考えれば、清三は、まさにそれを実践中でした。だからこそ、病により若くして亡くなったことは、機会が奪われたと感じられて、傷ましく思われます。

「田舎教師」には、主人公と対比したくなる荻生という人物が登場します。清三の中学校の同期生で、進学せずに、故郷の郵便局で働いています。職務忠実に働き、不平不満がなく、清三への友情にも熱い。そんな荻生の存在が、夢に囚われた清三の苦しみを際立てている気がしました。

荻生のような生き方ができる人もあれば、清三のような生き方を欲する人もある。人生は、自分の思うとおりに生きてみなければわからない。そんな気持ちになった「田舎教師」でした。

ここまで、読んでくださり、どうもありがとうございました。

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