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1月① 茶畑の真緑に不二の白雪(静岡県富士見市今宮の茶畑の風景)

 茶といえば、茶の湯が思い出されます。これこそが「わび・さび」という「人の世のはかなさ」「無常であること」を賞賛する美意識という日本文化の中心思想を表象するかのように語られてきました。

無題

 が、実際の茶の湯の成立には、戦国時代の陰惨さが関与しているようです。そのことを『茶の世界史』(中公新書)の著者である角山榮さん(故人)に教えてもらったことがあります。つまり16世紀に日本でイエズス会の通訳を務めたジョアン・ロドリゲス(1561~1633)『日本教会史』で、こんな見方を披露しているというのです。

 端的に言うと、必要以上に質素に見える茶室やそこに入るための「にじり口」相手の目の前で茶を点てることなどが彼には不思議だったようです。
 で、当時の世相と茶の湯の社交を観察するうち、それが、
 「敵同士さえもが安全に出会える見事なシカケ」
 だと気づいたというのです。
 つまり、武器商人でもあった千利休は、その買い手である戦国大名などと折衝する必要があります。で、そのための場としての茶室を考案・整備したのだというわけです。

 実際、茶室に入るために64センチ四方の「にじり口」を通るには腰の刀をはずさなければなりません。それに、客の目の前で点てる茶に「毒を入れる」のは不可能です。そんな「安全な場」でこそ「危険な武器の取引」が可能となったというわけです。

 が、やがて戦国の世が終わり、早期近代化が緒につき始めます。で、人々が礼儀正しく安全に社交を交わす必要は一層高まりました。それは同時に日本が、現代にまでつながる独特の文化を育み始めた時代とも重なります。
 そんな時代に、きわめて派手な桃山の美学とそのアンチテーゼとしての「わびさびの美学」が相克を繰り返しながら、以後の文化創造に貢献したということなのでしょう。

 冬枯れの風景に取り囲まれながら、晴れ渡った青空のもと、霊峰富士の雄姿を背景に広がる緑の茶畑の写真を目にして、こんな文章を書いてみました。

 国木田独歩『武蔵野』で描いた関東の冬の落葉樹林の風景は力強い。が、同じ季節に東京から関西に向かうと、静岡を境に山の緑が増えて気分が和む。
 日本列島を弓状に折り曲げている大地溝帯(フォッサマグナ)の東側と違い、その西側では常緑の照葉樹が卓越するのだ。葉に光沢のある椿や茶の木もまたその仲間にほかならない。

 とはいえ茶の原産地は四川・雲南か中国東南部かは別にして、中国であることは確からしい。それが記録では平安初期、嵯峨天皇の時代に伝わったとされてきた。ただ最近は奈良時代に伝わったとも考えられている。
 が、喫茶の習慣が広がるのは12世紀末、宋から栄西が茶の木の種を持ち帰ってからであるらしい。以来、当初は彼自身が『喫茶養生記』に記したように「養生の仙薬、延命の妙術」とされた。それがやがて嗜好品とみなされ、されに常用飲料として日本人に親しまれるようになる。

栄西と『喫茶養生記』

 この間、明治時代には茶が、生糸や絹織物と並ぶ重要な輸出品の地位を占めた。だから、常用飲料になるのは意外に遅く、輸入量が輸出量を上まわるのも第二次大戦後の高度成長期にまでずれこんでいる。

 ところで、1975年をピークに茶の消費量は減りはじめる。コーヒーはじめ、多様な嗜好飲料が普及したからだろう。くわえて当代の多忙が、ゆったり茶を嗜む日本人の気分の余裕を失わせたという事情も作用しているようだ。

 そういえば茶は、茶の湯に象徴されるように人をもてなし、人と触れあう大切な媒介でもあった。さらに最近の緑茶のビタミンAやCの含有量は、紅茶やウーロン茶を大幅にしのぎ、渋味成分のカテキン類には発ガン抑制や抗菌、虫歯や口臭予防の作用さえあるという。
 だとすれば、伝来の緑茶の衰退は避けねばならない。そしてそのためには鮮やかな緑の茶園もまた絶やしてはならない。それは、寂しい冬枯れの風景に、つい萎縮しがちな、ぼくら日本人の気分を元気づけてくれる精神の栄養剤でもあるように思われる。

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