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夢は天才である:「眠りと夢の文化論」ことはじめ

           写真はヨハン・ハインリヒ・フュースリー「夢魔」

 「虚」と「実」の「間(あわい)」に遊ぶ
 幼い子供が、両手で丸いお盆を回転させながら、
 「ぶるん、ぶっぶーっ、だっだっだっだー、ごとん」
 ずいぶん調子が出ています。お盆をハンドルに見立てた「自動車ごっこ」(https://192abc.com/43645より引用に夢中になっているのです。

自動車ごっこ

 しかし、本気で「お盆」を「ハンドル」だと思っているわけではありません。もしそうなら、ちょっとおかしいというほかなさそうです。でも「なかばは本気」なのでしょう。そうでないと面白いはずがありません。

 「夢中」というのは「夢の中」――「丸いお盆」は「ハンドル」の姿を映し出す「メディア」です。きっと視線の先には、自動車のボンネットの「幻(まぼろし)」が見えているのでしょう。「夢」「メディア」「幻」は、いずれも「ないものを見せてくれるしかけ」なのです。

 江戸時代の歌舞伎作者・近松門左衛門(図はWikipediaより)は、
 「芸というものの面白さや楽しさは実と虚の皮膜のあいだに生まれる」
 という意味の言葉を残しました。そんな「実と虚の間(あわい)」──「遊び」は、その微妙な境目に生まれます。

近松門左衛門

 よく似たことは、大人にも起こります。ずいぶん古いけれど、今なお女性に人気の映画、たとえば「ローマの休日」(写真:Wikipediaより)を見ているとします。映画館なら、現実の生活にわずらわされる心配がありません。だから、ロマンチックな雰囲気に浸りきれます。
 そんなとき、ローマの街で、ハンサムな男性と楽しそうにバイクに乗って、風を切っているのは、ヘップバーンなのか、それとも、あなた自身なのか。思いは「虚実のあわい」にたゆたいます。

ローマの休日

 映画を見たあと、
 「イタリアへ行ってみたい」
 そんな「夢」を抱き、やがて、その「夢」を果たした人も少なくないでしょう。

 ところで、「夢」という言葉ですが、それは古い日本語では「いめ」と言いました。いうまでもなく、その意味は『広辞苑』によりますと、

 「睡眠中にもつ非現実的な錯覚または幻覚。多く視覚的な性質を帯びるが、聴覚・味覚運動感覚に関するものもある。②はかない、望みがたいもののたとえ。③空想的な願望。心の迷い。迷夢」

 となります。ただ、1983年に公刊された『広辞苑(第3版)』から、こうした語義に「将来実現したい願い。理想」という語義が加えられました。

 「眠って見る夢」と「将来の夢」
 ついで「夢と現実の関係」について考えてみます。
 むろん「夜に見る夢」は現実ではありません。でも、夢のお告げ、正夢、予知夢などといった言葉があります。現代に生きるわたしたちは、
 「そんなことは科学的にありえない」
 そう考えます。でも、やっぱり気にはなるはずです。ときに夢のなかのできごとが、仕事上の問題や日頃の悩みを解くきっかけになったりすることもあります。

 そういえばニューギニアの高地民族(写真:本多勝一)は、夢のなかのできごとを、現実世界とつながっていると考えているのだそうです。だから、夢のなかで誰かに悪さをしたら、目覚めたのち、
 「さっきはごめん。悪かった」
 とあやまるのだといいます。べつだん彼らが遅れているわけじゃない。わたしたちとは夢の理解のしかたがちがうだけのこと「です。

ニューギニア高地人(藤木高嶺)

 昔の日本人も「夢を売り買い」したりしました。
 たとえば13世紀、北条政子という女性は21歳のとき、2歳年下の妹が、
 「高い峰に登り、月と太陽を左右のたもとに納めた」
 という夢を見ました。すると姉の政子は、
 「なんと恐ろしい夢でしょう」
 そう妹を脅して、その夢を、おためごかしに買ってしまうのです。で、政子は見事、天下人の源頼朝の妻になったというのです。

北条政子

 ところが約100年後、南北朝の動乱を描いた『太平記』には、こんなエピソードが記されるようになります。

 相模守だった北条時頼が、「青砥左衛門を取り立てよ」という夢を見て、青砥に領地と与えようとします(写真:Wikipediaより)
 青砥左衛門とは、
 「夜の川に落とした銭10文を、従者に銭50文で松明を買わせて探させた」
 とされる人物です。その青砥は、相模守の下命を固辞します。というのも、
 「もし相模守が逆の内容の夢を見たら、所領を没収されることになる」
と考えたからです。

青砥左衛門

 ところで、現代における「夢の理解」はどうなっているのでしょうか。1990年代の『朝日新聞』の記事に記された「夢」の意味を総ざらいしたところ、「夢」という言葉の95%が「将来実現したい願い」の意味で使われていました。
 では今後、「眠って見る夢」は、どんな扱いを受けることになるのでしょうか。
 
 夢の働き──芸術の創造と科学の進歩
 無論ここで話題に取り上げているのは「眠っているときに見る夢」です。で、かりに8時間の睡眠をとるとします。その間、人は4、5回に分けて90分ぐらいは夢を見ているようです。
 最初は、寝入りばなの「うとうと」が本格的な眠りに移るころ、色のついた光や幾何学模様が現れます。そのうちに、人の顔、空を真っ赤に染めて沈む夕陽、燦々と陽の光が降り注ぐ林や野原が見えたりするようになります。

 その後、眠りは深くなったり、浅くなったり……。やがて筋肉がゆるんで、体は動かないのに、眼球だけが急速に動く時期がやってくる。そんな眠りを「REM(rapid eye movement:急速眼球運動)睡眠」といいます。このとき、人は夢を見るのです。

レム睡眠

 内容は、じつにさまざまです。なかには、すてきな恋の夢もあるでしょう。たとえば『万葉集』に、こんな歌があります。

   摺り衣 着りと夢に見つ 現には いづれの人の 言か繁けむ

 「摺り衣」は草木染めのおしゃれ着です。それを身に着ける──当時「夢で着物を着る」のは、男女がむつまじい関係になる前兆だと考えられていました。この歌は、だから、
 「そんな危うい関係になるお相手はどなた?」
 という恋の予感を歌い上げたものなのです。

 『万葉集』だけではありません。世界の歴史をたずねても、たとえば芸術の領域では、17世紀イタリアの音楽家、ジュゼッペ・タルティーニは、悪魔の引くバイオリンの曲を夢で聴きました。目覚めたのち、それを楽譜に記したのが名曲「悪魔のトリル」(写真:Wikipediaより)になりました。

悪魔のトリル

 夢はまた、科学上の発見をもたらしもしました。
 19世紀の化学者アウグスト・ケクレは、C6H6という分子式を持つベンゼンの構造式の解明をめざしていました。が、なかなか適切な答が見つかりません。で、研究に疲れて暖炉のそばで「うたた寝」をしていたところ「ウロボロス」、つまり「しっぽを加えている蛇」の夢を見たのです。
 その瞬間、6個の炭素と水素が6角形の「ベンゼン核」の構造式に思いついたのだと言われています。

ケクレ、ウロボロス、ベンゼン核

 こんな例は、芸術の世界のほか、科学の新発見などにも、たくさんあります。目覚めているときに、一所懸命、考えたり感じたりしていることが、眠っているときに見る夢のなかで、一挙に解決されたり、素晴らしい創造に昇華されたりすることは珍しくありません。
 夢には、そんな力が備わっているのです。

 「存在しないもの」を見たり、聴いたりする
 ここで大切なことは、
 「そこに存在しないものを見たり、聴いたりする」
 ということでしょう。芸術家でも科学者でも、独創的な仕事をした人は、
「 そこに存在しないものを見たり、聴いたりした人」
 だといえます。

 たとえば、ゴッホの「星月夜」(図:Wikipediaより)という絵を思い出してください。あんな風景は、ゴッホ以前には誰も目にしたことがない。それを彼の「天才」は、夢の中なのかどうかは知りませんが、いつか心のなかで、たしかに「見た」のです。モーツアルトだって、心のなかで「聴いた音楽」を楽譜に記したにちがいありません。

星月夜(Wikimedia)

 「独創」とは、特別な才能を持った人が、普通の人に先駆けて「見たり、聴いたり」したことを表現したものにほかならないのです。
 それが、夢のなかでは、わたしたち「普通の人」にも、ときに可能になります。ここで「普通の人」とは、その領域において「ごくあたりまえの常識人」といった程度の意味です。わたしたちは通常、あらゆる物事を、ごくあたりまえの常識どおりに見たり、聴いたりしているのでないでしょうか。

 ところが、夢の中では、目覚めているときの常識の束縛がとり払われます。そして、本来は誰にもそなわっている想像力が、自由に羽ばたき、自由に飛び回ります。
 そう、夢は人の心を「自由にしてくれる」のです。その結果、目覚めているときには見えないものが見えたり、聞こえない音や言葉が聞こえたりするというわけです。

 そんな自由な想像力には、誰もが憧れます。なかでも石川啄木という人は、自由への憧れが強かったのでしょう。自由に姿を変え、どこへでも自由に飛んでいく「空の雲」に託して「雲は天才である」という小説を書きました。
 それは、彼の分身の新田耕助という若い代用教員が、「教育勅語」を後生大事に奉じている校長に反抗し、一人の女教師と生徒たちを味方につけてやりこめる話です。

石川啄木と雲(Wikimedia)-side

 ただ、この小説は、ちっともおもしろくない失敗作で、未完のまま終わっています。啄木も、そのことが分かっていたのか、みずから、

   くだらない小説を書きてよろこべる
   男憐れなり
   初秋の風

 という短歌を詠みました。
 その啄木が、短歌の世界では素晴らしい、たくさんの作品を残しています。わたしの好きな歌に、こんなのがあります。

   宗次郎に
   おかねが泣きて口説き居り
   大根の花白きゆふぐれ

 寝入りばなに見る夢のような、のどかで懐かしい、田舎の夕暮れの風景が彷彿とするようです。

大根の花(Wikimedia)

 「夢は天才である」──理系と文系の「あわい」
 してみれば、啄木のいう「雲」よりも、「夢」こそ「天才」なのじゃないか。わたしとしては「夢は天才である」といいたいところです。

 では、人は何故、どのような脳の働きで夢をみるのでしょうか。眠っているわけですから、目で見たり、耳で聞いたりするわけじゃない。簡単にいうと、脳の視覚野や聴覚野という場所が、あたかも目で見たり、耳で聞いたりしているかのように働くのです。
 そのしくみは、ここでは詳しく説明できません。いずれ、このシリーズで、そんな話題を取り上げることにします。ただ、そのことを、ごく簡単に解説しておくと、つぎのようになるでしょう。

   夢は「脳の働き」によって生じる。しかし「脳の働き」とは「心を働
  かす」ことにほかならない。ところで「心」は、人それぞれの過去の体
  験に由来し、未来のありようを決める。「夢」は、そんな「心」が、み
  ずからをさらけだして姿かたちをあらわにしたものなのだ。

 脳を研究するのは脳生理学です。心を研究するのは心理学です。従来これらは、それぞれ別々に「夢」を語るケースが多かったように思います。それに対して、このマガジンでは、その「あわい」を埋め、つなぎ、その「あわい」にたゆたいながら「夢の全体像」をとらえようと考えています。
 こうした試みに、文化人類学が新しい視点を提供してくれます。世界のさまざまな民族は「それぞれ独特のしかたで夢を理解している」からです。

 今ひとつ、「文系の夢」研究には、ジクムント・フロイトの精神分析学カール・ギュスターヴ・ユンクの分析心理学という、ふたつの大きな「家元」があります(写真:左=フロイト、右=ユンク)

フロイトとユンク

 眠りと夢をめぐる文化論のシリーズでは、これらふたつの「家元」から解き放たれて、自由「眠りと夢」を遊び、楽しむよう、心がけることにします。

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