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独学・知的生活の方向性について思索する 実学志向かアカデミズム志向か

独学や知的生活に憧憬を抱いている方は結構いる のではないでしょうか?
小理屈野郎は独学を地道にやっているつもりですし、知的生活、という言葉には非常に憧憬を抱いていて、そういうものを感じられる生活を送りたいなあといつも思っています。

基本的に独自の方法でやっています ので、いつも方法論は気になるところです。
ですので、それに関する著作を読んだり、その後に思索にふけったりしています。
内容によってはそれらの著作など参考にした上で実際に実践 してみます。もちろんその上でブラッシュアップもしていく ようにしています。小理屈野郎の場合、その最たるものは読書ノートである と考えています。
それ以外にも実践している内容としては、読書に関する姿勢とか、執筆や読書空間の作り方、ちょっとした習慣 等もあります。

独学・知的生活に関する記事や論調に対する違和感

さて、独学・知的生活の著作を読んでいると、それらの目標というか目当て、というかどこにゴールをおくかということ が大事になってくると思います。
小理屈野郎も含まれますが、基本的には一般社会人として社会生活を送っている人がほとんどでしょう。
そのような環境にいる場合は、何らかの制約事項 が出てきます。
経済的な問題であったり、スペースの問題、そして人間関係(人付き合い)も問題になってくる場合もあると思います。
小理屈野郎は制約のある中でできるだけのびのびと充実した独学や知的生活を送りたい と考えています。
ここで、背伸びをしすぎない、ということが非常に重要 になってくると思います。
独学による知的生活を送ろうと思っている場合、目標として「知の巨人」、例えば池上彰さん、または佐藤優さん、故立花隆さんらをあげる人もいると思います。事実小理屈野郎はノートを始めるときにはそのように考えていました。
彼らは、基本的にはアウトプットをするのが仕事 であり「知の巨人」であるから現在の仕事や社会的地位があるのではないかと思います。そして彼らの送っている日常生活というのは常にいろいろなものを読み、学び、執筆する、というのがメインになっています。つまり、「知の巨人」であり続けることがいわば仕事でもある と考えられます。
ということは「知の巨人」になることを目指していたらちょっと深掘りしすぎではないか と考えています。彼らの知的生活に関する著作を読んでも生活などをまねすることはほぼ無理です(会社で一定時間拘束される必要がなかったり、新聞を3紙以上購読し、目を通すなど)ので、彼らが仕事をするときのちょっとしたテクニックや大きな原則を学び、それらを自分なりに集めていって自分用にカスタマイズし自分独自の独学・知的生活を構築し、それをより深みのあるものになるように考えていく必要がある と愚考しています。
要するに「知の巨人」に近づく努力は有用だと思いますが、なろうとするのはかなり難しいのではないかと考えています。
その点を踏まえて、独学や知的生活に関する本を読んでいるといくつかの方向性がある ことに気づきました。

独学・知的生活には方向性がある

独学・知的生活には前の2つ、後の2つの2軸の方向性 があるのではないかと考えています。

まずは一つ目の軸となる実学思考かアカデミズム思考か について述べていきます。

実学志向

結果につながらないものには極力触れない、という考え方だと思います。素早く結果を得るために独学や知的生活を活用する という方向で論理を進めている論調です。
確かに即効性があるので実践をするとなんだかすごいな、と思うこともあります。しかし実践して、一定の成果を得ると、それでおしまいになってしまうような気がします。もちろん本当の意味での知的生活を指向するなら、それをブラッシュアップする必要があります が、そのようなことについてはあまり触れていない論調が多いような気がします。
小理屈野郎の場合は普段の仕事も実学志向の仕事です。必要な情報を素早く集めて自分のものにする姿勢が問われる職場にあって、自分の個人的な独学や、知的生活を実学指向に振り切ると、職場と同じようなことを趣味として行っているのではなんだか悲しいような、素っ気ないような気がしています。

アカデミズム志向

もう一つの方向としてはアカデミズム指向があると思います。
最近のキーワードでいうとリベラルアーツ指向、とも言い換えることができるのではないかと考えています。

まずは、アカデミズムについて調べてみることにしました。
久しぶりに、執筆に使っているポメラの中に入っている電子辞書 を使って調べてみました。

アカデミズム[academism]
[名]
(1)学問・芸術で、理論を重視し、純粋に真理や美を追究しようとする立場。学問至上主義。
(2)大学・研究所などで、保守的・形式的・権威主義的な学風を固持しようとする立場。官学的な伝統主義。

明鏡国語辞典MX

かなり抽象的なことを書いていますね。
小理屈野郎が今回「アカデミズム」という言葉を使ったのは、用法的には(1)の方 です。
(2)の方は実際の生活の場では弊害として存在することになるでしょうから、これについても後で思索してみますね。

上記のような言葉の定義を元にして小理屈野郎的には「アカデミズム(思考)」を以下のように定義 しています。

無駄なものと一見思われるものに対しても、丁寧に目配りし、探求の心を忘れない。
無駄と思われるものは現在無駄と思われるものであって、そのようなものが集積してくるとあっという成果が出たり、何かするときの「次の芽」になることがある。

以上のようなことから、小理屈野郎は少しでも興味を引いたことについてはそれに関する著書をデジタル読書をしたり、その内容を読書ノートに思索しながらまとめたり しています。
興味のあることは、実学指向的な内容から、哲学的な内容まですべてを含めるように意識しています。
このようにしてデジタル読書を通じてできた読書ノートのデータベースが、小理屈野郎の知的生活の大きな柱 になっています。

上記の用法(2)についてですが、現在できている「型」にこだわりすぎると上記(2)のようなアカデミズム志向になるのではないか なと思います。常に、よりよいものを求める姿勢を忘れない ようにすればかなりの確率で上記用法の(2)に傾くのは防ぐことができるのではないかと考えています。

次に2つめの軸について思索していきます。

制約を制約として受け入れた上で実行する

制約とは、経済的、社会的を中心とした様々なな制約 のことです。
経済的な制約としては、(いきなりゲスい話になりますが)自分のやろうとしている知的生活にどれだけの経済的な資本を投入できるか、ということです。
これは個人個人によって全然違いますし、独身か、家族と一緒に生活しているか、とか住宅ローンがあるか、とかいろいろな要因があると思われます。
社会的な制約としては、社会生活を送っている人で仕事をしている人の場合は被雇用者であることが多いはずです。その場合は、会社に時間的拘束を受けるわけです。もちろん雇用者でも時間的拘束は受けることが多く、被雇用者より時間的拘束が大きい場合も散見されると思います。
上記の独身か、家族と一緒に生活しているか、なども社会的な制約の一部になるのではないかと思います。
独身の場合は自分の考えだけでフリーハンドで生活できますよね(それを称して独身貴族 、などと昔はいったりしていました)。家族がいるということは、家族でいることのメリットもすごくたくさんありますが、家族のために自分の予定などを合わせていく必要があることもあります(もちろんそれは喜ばしいと感じることが多いのですが、あえてこのような言い方をしています)。

これらを受け入れた上で、そのまま与件として対処していく ということです。
制限というのは結構面白いもので、制限があることによって工夫します ので、与件だけに振っている場合は結構少ないのではないかと思われます。
そういう文脈で、もう少し資本を投入する(他の別の何かを諦めなければならないトレードオフな場合がほとんどでしょうが)、というやり方もありますね(程度の問題ということで、同じ軸の上で立ち位置が少し変わるということでしょう)。

制約をなるべく撤廃する方向で実行する

上記のような制約をすべて撤廃するような方向で実行していくという方法です。
家族がいても家族が非常に理解してくれていて、ほぼフリーハンドの人もいて、与件がかなり良い状態の人もいます。そういう人の場合はこの撤廃する方向で話を進めることができるとかなり条件が良くなりそうですね。
ただし、実現しようと思うと、かなり現実的ではないことが多いような気がします。

上記のような2つの軸があるとした上で、各個人がどのように独学・知的生活の方向性を作っていくか、ということになっていくのだと思います。

方向性の問題で、どちらが良いとか悪いという話ではない

これらは方向性の問題で、どちらが良い、悪い、というものではない と考えています。
自分のできる範囲で、できるだけの思索をして、自分にフィットするそして周りのみんなを幸せにできる可能性がある独学・知的生活を構築していけば良いのではないか と考えています。
ですので、「知的生活(独学)を成功させるためのたった一つの方法」 とか、「知的生活(独学)をする上で○○をしていないのは致命的」 とかいうのは本来おかしい論調 ではないかと思っています。

何でも結果が求められる昨今、上記のようなキャッチーな表題をつけることによってネット上のページビュー(PV;閲覧数)を稼ぐのが結構なはやりになっていますが、よく内容を読んだ上で各個人でその内容を吟味する必要がある と考えています。

その上で小理屈野郎はどちらを採るか

じゃあ、小理屈野郎はどうしているのか・どうしていくのか、ということを最後に思索したいと思います。

小理屈野郎の卒業大学は実学志向、大学院も博士号が採れば良いという姿勢で臨んだため実学志向(もしくはそれ以下)でした。個人的な志向の問題と、教育環境とのコラボでなかなか変な方向にとがっていたという風に理解しています。

大学の教養課程の間は、読書は濫読、という感じで進めましたが、特に読書ノートを作るわけでなく、なんとなく増えたのは、いわゆるトリビア的な知識のみだった のではないかと思います。もちろん多少の人間形成に資するところはあったと思いますが。
それ以外では外国語を趣味で習ったり、夏休みは毎回語学研修で1ヶ月近く海外で過ごしたり 、ということで見聞を広げていました。
これは後者は小理屈野郎の人間形成において非常に大きなことだったと考えています。

大学の教養課程でも、単科大学でしたし、いわゆるアカデミックな雰囲気で非常に興味を持てるような教科はほぼありませんでしたので、大学でそのような経験をすることが多かっただろう総合大学を卒業した人たちの話を聞いていてうらやましく思うことが多々ありました。
また、ふと浮かんできた立ち止まって考える、という考え方がアカデミズム志向にもつながって来ているのではないか と思います。

その後は就職して、実学志向ほぼ一辺倒の現場で、仕事に関することを勉強したり、自分で深掘りすることはありましたが、その他に趣味として独学や知的生活の構築などはする時間がない期間が長かった です。

現在はご存じの通り自分の教養(=知的生活度)を高める、という意味でデジタル読書を通じて独学をしています 。ここまではまったのには、アカデミズムに対する憧れがあったのではないかと思います。また、制限については予見だけでは悲しいので、トレードオフも実行しながら、撤廃できるところは少しずつ撤廃しています。これらをミックスし、小理屈野郎の現在の知的生活は営まれています。

ということで、小理屈野郎は、自分にかかる制限も十分に認識した上で、制限を解除できるものは解除できる方向で努力し、アカデミズム志向に振り切らずに少し地に足のついた実学志向も取り入れながら、独学・知的生活をこれからも探求しつつ楽しんでいきたい と思い、それが小理屈野郎の独学と知的生活だと考えています。

まとめ

今回は独学や知的生活を構築するに当たっての方向性の軸が2つあることに気づいたので、その軸について思索してみました。
方向性の軸が2つあることを認識した上で、どのように独学や知的生活を構築していくべきかについて全体的な思索をした上で、小理屈野郎はどのように構築してきたか、そしてこれから構築していくかを思索しました。
これからもコツコツと着実に、楽しくのびのびと独学や知的生活を勧めていきたいと思います。


このようにちょっと突っ込んで思索してみたのは、ついついキャッチーなお題目の独学や知的生活の記事がネット上や書籍であると読んでしまって一瞬流されそうになることが多い からです。。
それについてのアンチテーゼというか、自分なりのスタンスを固めたかったというところもありました。

ちょっとすっきりしました。

やはり違和感を感じることについては少し立ち止まって思索してみることは重要ですね。

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