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読書にも体力は必要? 療養中の読書と療養後の日常生活について思索する。

今回は(デジタル)読書と体力について思索してみたいと思います。

いきなりこのテーマは、ちょっと唐突ですので、背景になったことからお話ししていきます。

やっと普段通りの生活が戻ってきた

小理屈野郎は、隔離されて療養生活を送っていた ことを少し前のnote記事でお話ししました。

幸いなことに、小理屈野郎は今週の頭から、もとの生活 を始めています。
家族のメンバー全員、やっと普段の生活を取り戻しています。怒濤の2週間は終わりました

デジタル読書と音楽鑑賞の記事を書いているときに、クラウドファンディングで注文していたイヤホンが来た、ということが一つの契機になっていたのですが、なぜかデジタル読書と音楽鑑賞という私の2つの没頭する趣味をコラボさせる 、という発想が起こりました。

note記事にもあるように以前にも同じことに挑戦している のに、再度やっています。
それについて少し思索してみました。

読書ノートを見直してみた

療養期間に読み終わった本は14冊。そのすべては、新しいワークフローで読書ノートを付ける ことが出来ました。
ちょうど療養に入る前後にワークフローを変えており、まだきれいなルーチンになっていなかったのでそのようなときにまとまった時間をとることが出来たのは本当に幸運だった と思っています。

読書ノートの内容をみてみたのですが、そもそも著書が、ちょっとした知識を得る本だとか、軽く読める本が非常に多い ような感じでした。
それでも読書開始から読了まで普段ではこんなにかかるか 、というような時間がかかっているものもありました。
そのときの状態をつらつらと思い出してみると、特に療養開始後数日は微熱、その後の関節痛や全身倦怠感がかなりきつく、夜は8時間程度の十分な睡眠をとれていても、午前と午後に小一時間ほど睡眠を入れなければならないほどしんどかった のを思い出しました。そのような時間が削られているのと、読書するにも集中力が普段ほど上がっていない(没入できていない) のではないか、と考えました。

小理屈野郎にとっての趣味とは

ここで、小理屈野郎が趣味に求めていることは何か、と考えてみると、おそらくその趣味による行動によって没入感を得ること だと思うのです。

デジタル読書は、著作の中に入り込みその中で、想像を働かせたり理論的な脳で思考実験をすることに楽しさを感じているのだと思います。その延長が読書ノートでもあったのだと思います。

また、音楽鑑賞についても、イヤホンを使い出してから非常にのめり込んでいました。おそらく周りからの雑音をイヤホンによって完全に遮蔽し、音楽に没入することによってその旋律や歌声、リズムなどに没入していた のだと考えました(その証拠にデジタル読書との両立は無理でしたから)。

ここまではインドア系の趣味でしたが、小理屈野郎の唯一長く続いているアウトドア系の趣味はスキーです。

このスキーでも、特に楽しさいと感じる瞬間はゲレンデで音楽がなっていないところで、一定以上のスピードに乗ってシュプールを描く 、ということなんですよね。
このときも、滑る、ということだけに没入していますね。

このように没入感を楽しんでいるのですが、没入するのに必要な条件 を考えてみることにしました。

没入するには

雑音を遮断する

小理屈野郎の傾向としては雑音を遮断する必要があることが多いです。色々なことをしながらの音楽鑑賞も結局は雑音になってしまうようです。
また、スキー場でも音楽が流れていないところを好む こと、音楽鑑賞でもイヤホンを使う こと、等がこれに当てはまると思います。
デジタル読書では字面を追っていると徐々に没入が始まり(5分ぐらいでしょうか)、「定常状態」に入ります 。しかし、これは普通の環境のところでの話しであって、新幹線通勤をしている遠隔地勤務のときは常にデジタル耳せんを付けています 。これも雑音を遮断していますね。

小理屈野郎にとって雑音を遮断することは非常に大事なこと なのだろうと考えました。

やり出すと他のことに注意を必要としないこと

スキーで滑り出しても、デジタル読書を始めても、そして音楽鑑賞をしだしても、それだけで他のことに注意を必要としない行動 であろうと考えます。
もちろんスキーで滑り出したあとは周りの環境などはみていますが、これはスキーでは当たり前のことです。そうしないと安全が図れません。
デジタル読書や音楽鑑賞の場合はもう少しゆるめですが、例えば玄関の呼び鈴がなるとか、電話がなるとか、それなりの外界からの刺激に対しては反応していきます。
反応はするのですが、面倒くさく感じたり、うっとうしく感じることもそれなりにあります。

「静的」な体力

あと、今回の思索で気付いたのが「静的な」体力 です。
これについては個人的に定義したことばなので少し説明をしておきたいと思います。

例えば、マラソン大会に参加して乾燥できる、100キロのバーベルを上げられる、握力が70キロある、等というのはどれも事実としてはすごいですが、これらはいわゆるフィジカルな体力 と考えられると思います。これについて、今回小理屈野郎は「動的」な体力 と定義します
一方「静的」な体力 とは、過密なスケジュールを長期間問題なくこなしていくのに必要な体力 です。
「静的」な体力には、毎日の生活の中の回復力なども含まれてくる のではないかと思います。
また、「動的」な体力とともに「静的」な体力も加齢が大きなキーを握っているのではないか と考えています。

今回の療養生活で気付いたのは、感染、という状態の中で「静的」な体力は結構落ちていたのではないか 、と思うのです。だからこそ、午前・午後ともにちょっとした睡眠が必要だったこと、そして比較的軽い内容の著書を読んでいたことが多かったことなどが揚げられるのではないかと考えました。

療養生活で本当に没入できていたのか

以上のようなことを勘案した上で、今回の療養生活を没入の条件から見直してみました。

雑音について

一人隔離され、自宅療養していたわけですから、これについては完璧でした。

他の物事への注意

やっていたことはデジタル読書とnote作成がほとんどでしたので、没入感が得られることをしていたこと、そして誰も訪ねてくるような環境ではなかったです。これについても問題はなかったと考えています。

「静的」な体力

これについては、結構怪しかったのではないか と考えました。前述のように午前・午後にもちょっとした睡眠が必要なぐらい「静的」な体力が切れていたと考えます。いわゆるガス欠状態 、という感じでしょうか。
それが影響して少し軽めの著書を読んでいた と言うことでしょう。

ただし、このようなちょっと特殊な条件下ですので、本当に没入できていたかどうか、このような状態下の場合これからどうしよう、ということは特に考えるつもりはないです。
何もしなかったら非常に退屈だろうし、元々孤独な環境ですから鬱々としてしまったかも知れません
そのようにはなっていないようなので、これはこれで良かったのではないか 、と考えています。
そして、ほぼ一人で、隔離されたような状態でもこれぐらいの期間はなんとかそれなりに普通に近い状態で過ごせた、ということは自信になりました

まとめ

今回の療養生活について、没入という観点から評価し、思索してみました。
没入するためには、「動的」な体力は必要な場合もあるし、ない場合もあることが分かりましたが、「静的」な体力については必ず必要であることが分かりました。
そんな中で、療養生活という特殊環境であってもそれなりに「静的」な体力が残存していたので、ある程度のクオリティーの没入感を得ることが出来ました。
今後元気なときでも没入できない場合は今までに考えていたような2点(雑音や他の干渉するようなことを排除する)だけではなく、「静的」な体力が残存しているか、ということについても考えをはせていければと考えました。


今回の内容は、この療養生活で読んだ著書について書評を書こうと思ったのですが、なかなか良い感じのものはなかった ので、そこからnote記事を執筆してみました。
なかなかベストの没入感を得る、というのも難しいものだ と感じました。

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